神様の3つの啓示

三位一体主日、2014年6月15日



イザヤ6:1-8
6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

今日は三位一体主日です。聖書の中で、神様を啓示する3つの箇所をみましょう。まず、父なる神様の啓示です。

イザヤ書6章で、預言者イザヤは幻の中で神様を見ました。栄光の場面ですが、同時に恐ろしい啓示です。神様は高く上げられた玉座におられました。神様の素晴らしい衣の裾susoは長くて、神殿いっぱいに広がっていました。王座の上に、右と左のように、ボーディガードのように、セラフィムが飛んでいました。セラフィムが普通の天使、ガブリエルのような天使と違います。六つの翼tsubasaがあり、口から煙と火が出る、竜やドラゴンのようなものでした。(ところで、ヘブライ語では、セラフィムという言葉は、「燃える」と言う言葉から来ます。)王座の上を飛んで、このセラフィムはお互いに呼び交わし、神様の栄光を唱えました、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」轟く声が神殿の入り口の敷居(しきい)は揺ureれ動き、口から出る火と煙で神殿は煙に満たされました。これを見たイザヤは、恐れました。言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」自分の目で聖なる王様、天国の主を見て、イザヤは自分の罪を知りました。しかし彼の罪が、神殿の祭壇から取った炭火によって赦されました。今度、赦されたイザヤが、預言者になるように、神様の御言葉を述べ伝えるように、裁きと警告keikokuの言葉を告げるように呼びかけられました。その招きを受けて答えました、「私がここにおります。私を遣わしてください。」と。

御子なる神様の啓示は、福音書で十字架上のイエス様のなかに見ます。栄光の場面ではありませんが、恐ろしいです。イエス様は高く上げられた十字架の玉座におられました。天国の神殿ではなくて、死刑の場所でした。素晴らしい衣ではなくて、自分の洋服が兵士達にくじによって分けられました。イエス様を救い出す天使がいません。守るセラフィムもいません。その代わりに、その死刑の場所を守る兵士がいました。しかし、彼の右と左には、二人の泥坊がいました。飛ぶ翼がないが、高く上げられた十字架に付けられました。聖なる賛美の代わりに、侮辱bujokuと冒涜boutokuがありました。「ユダヤ人の王ならば、十字架から降りてみよ。」神殿を満たす煙がありませんでしたが、3時間ほど、全地が暗くなりました。又、イザヤ書の神殿の入り口の敷居は揺れ動きましたように、地震があり、神殿のカーテンが破れました。これを見て百人隊長が言いました、「本当に、この人は神の子だった」と。私達も、この場面を見ると、私達も言えます、「災いだ。私は滅ぼされる。私は罪人です。イエス様は私の為に、私のせいで殺されました。」しかし、その十字架上で流されたキリストの血が私達の罪を赦します。赦されて、イザヤのように、私達も神の言葉、即ち赦しの福音を述べ伝えるように招きを受けました。そして私達がイザヤと同じように答えます、「私がここにおります。私を遣わしてください。」

聖霊なる神様の啓示をペンテコステに見ます。今度は恐ろしい場面ではなくて、喜ばしい場面です。聖霊は、激しい風のように来られて、弟子達がいる部屋を満たします。イザヤ6章で、神殿が煙でいっぱいでしたが、ペンテコステの日には聖霊の炎の火が弟子達の上にありましたが、煙があったかどうか分かりません。「聖なる聖なる聖なる」と歌うセラフィムがいませんでしたが、弟子達は主を褒め称えました。ペテロは言いました、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒2:21)。又、「神はこのイエスを復活させられたのです。私達は皆、そのことの証人です。」(32)。群衆の人々がこれを聞いて、イザヤのように反応しました。自分達が罪人であると知りました。使徒2:37は言います、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」解決は、祭壇からの燃える炭火ではなくて、冷たい洗礼の水でした。ペテロは言いました、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と。そして、その日、3000人もの人々が神様の呼びかけを聞いて洗礼を受けました。

私達は三位一体の啓示を見ました。私達の洗礼に見ました。日曜日の礼拝の中で見ました。聖餐式の式文を唱える時、私達はそのセラフィムの歌を覚えます、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。」又、エルサレム入場の時、イエス様を迎え入れた人々の賛美を覚えます、「ホサナ、ホサナ、いと高き所にホサナ。」そして、聖霊から与えられた信仰によって私達の心が満たされて、私達の主イエス・キリストが教えて下さった祈りをします、「天にまします我等の父よ。ねがわくは、み名をあがめさせたまえ。」

聖なる神様の御前にいる時、私達はイザヤと同じように言うべきです、「災いだ。わたしは滅ぼされる。私は罪人です。」しかし、イザヤと同じように、私達が神様の御前にいる時、私達の罪も赦されています。聖霊は私達に来られます。私達も今聖なる者になったと聖霊が私達に教えます。私達は神様の目には、大切な物、聖なる者になります。私達は神様の賛美を歌うセラフィムになります。福音を告げる使徒です。私達はイザヤと同じように神様の招きを聞いて答えます、「私がここにおります。私を遣わしてください。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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