三位一体の第二位格

三位一体主日
2007年6月3日

今日は三位一体主日です。誠のキリスト教会としてのしるしで、三位一体の教理・教えを信じる事です。それは、神様が唯一(ゆいいつ)であることですが、3つの位格(いかく)が聖なる三位一体にあります。父は神であり、子は神であり、聖霊も神です。父が神である事には異論(いろん)がありません。ユダヤ教も、イスラム教も、エホバ証人もそう思います。しかし、キリスト教会の信条は、イエス様も聖霊も神であると言います。今日、どうしてイエス様が三位一体の神の第二位格である事が大切かについて調べたいと思います。

新約聖書の4つの福音書は、イエス様が神であるとはっきりと言います。マタイとルカのクリスマスの話しは、乙女のマリヤの子は神の子であると話します。マルコの福音書15:39に、イエス様が死んだ時、十字架の下に立っていた百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いました。ヨハネの福音書の第1章は哲学的な表現を使って、イエス様を「言葉」と言います。1:1、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」又、福音書の最後、疑い深いトマスは、疑わないで、「わが主!わが神!」と言いました。

しかし、どうしてこれが大切でしょうか。それは、イエス様がこの地上に降りて来られた全能の神様であるからです。イエス様は誠の神であり、誠の人間であります。ですから、イエス様が十字架上にいる時、神が十字架上にいます。イエス様が十字架上で死んだ時、神様ご自身が十字架上で死にました。イエス様が神であるので、ご自分の上に全世界の人々の罪を取ることが出来ます。そして、最高の犠牲を払って、その罪を赦しました。普通の人間はその事をする事が出来ません。又、それは、神様の最高の愛を表します。神様は、喜んで私達人間の為に死にました。それは、私たちへの最高の愛です。そして、イエス様が甦った時、それは、私達も復活して永遠の命を受ける事を表します。

キリストがいなければ、私達は父なる神様の愛を知る事が出来ません、罪に対する神様の怒りしか分かりません。しかし、イエス様によって、私達はその愛を知ります。聖霊が来られなければ、私達の罪深い、堕落した心はイエス様の事を知る事が出来ません。ですから、聖霊は私達の心に来られて信仰を下さいます。聖霊は私達にキリストを教え、キリストは私達に父を教えます。

再び、イエス様が神である事が大切であると分かります。私達は、自分の目で、父なる神や聖霊なる神を見る事が出来ませんが、イエス様によって、私達は神様を見る事が出来ます。神様には二つの手、二つの足のある体をもつかたであると意味するのではなくて、神様には、私達を愛して下さる心がある事です。ですから、罪や畏れにおそわれている時、私達を赦して私達を守って下さる神をイエス様の中に見ます。悲しむ時、イエス様の中にこの世の痛みと死の為に悲しんでいる神様を見ます。私達が淋しいと思う時、イエス様の中に、神様が私達を愛して、私達と共にいる事を見ます。私達が未来について心配する時、イエス様が私達の為に永遠の家を準備された事を見ます。イエス様が神でるので、彼の約束には全能の力があるので、その約束を成就します。

イエス様を知らない人には、神様はきびしくて恐ろしいとしか見えません。しかし、イエス・キリストによって、愛と希望を見る事が出来ます。ですから、キリスト信者達は三位一体の教理が大好きです。私達の救いの為に神様のすべての愛とご計画を見ますので、嬉しいです。

アーメン。

どうか、父と子と聖霊である全能の神様の祝福がありますように。アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会