イエス様に聞きなさい

2012年2月19
変容主日

福音書 マルコ 9:2〜9 (新 p. 64)
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

イエス様と3人の一番親しい弟子達が山に登りました。彼らは野宿しました。星の下で寝ました。そして、イエス様の姿は弟子達の目の前で変わりました。洋服が真っ白になって、輝きました。私の想像では大きな後光のようです。そこでイエス様は二人の旧約聖書の預言者と話し合いました。それはモーセとエリヤでした。

話しの内容はイエス様がこれから行おうとする救いの働きについてです。イエス様の苦しみ、死、と復活について語り合いました。モーセは神様の僕でした。イスラエル人を救う為に送られた僕でした。エジプトでの奴隷状態から彼らを導いたのです。約束の地までイスラエル人達を導きました。何百年後に、エリヤは神様の僕でした。その時イスラエル人は、偶像礼拝の罪の奴隷状態に陥ったのです。エリヤは主なる神様に忠実で、人々に本当の救いの道を教えました。ですから、イエス様がこの二人の旧約聖書の偉い人と話すのは、とてもふさわしいです。モーセは神様の律法を人々に与えました。それは人々の信仰も振る舞いも支配する為でした。エリヤは、人々に裁きと罰を述べ伝えました。それは人々を真の信仰に戻す為でした。しかし二人とも完全に成功する事が出来ませんでした。それでイエス様には新しい方法があります。その新しい方法とは福音です。神様の良い知らせです。裁きと律法の罰がイエス様の上に置かれていました。イエス様は新しいモーセではありませんでした。新しい律法を与える人ではありませんでした。また、イエス様は新しいエリヤでもありませんでした。滅びを告げる預言者ではありませんでした。イエス様は律法を守りましたが、その律法の本当の意味を表わしました。律法の本当の意味とは愛です。即ち神様を愛し、隣人を愛し、敵さえも愛する愛です。

神様はその3人の弟子達に言われました。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」聖書の歴史を覚えましたら、人々はモーセの言う事に聞き従いませんでした。金の子牛や他の偶像を礼拝しました。モーセの言葉に聞き従がいませんでしたので、40年間、荒れ野をさ迷う事になりました。人々はエリヤや他の預言者にも聞き従いませんでした。偶像を礼拝して、誠の神様の事を忘れました。エリヤに聞かなかったので、敵が彼らを滅ぼしました。彼らはアシリアとバビロニアに奴隷として連れて行かれました。ですから、神様はその3人の弟子達に注意をして言われました、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」ペテロが、仮小屋についてのナンセンスを止めて、静かになって、本当に大切な事を聞くようにしてほしいと思ったのです。 

弟子達の一番大きな問題とは、聞いて理解する事でした。イエス様は話しますが、彼らは理解しませんでした。特に理解する事が難しいのは、イエス様がご自分の苦しみと死と復活について話す時でした。この時点では、まだ神様のご計画を完全に分かりませんでした。イエス様の苦しみが私達の救いの為に必要である事が分かりませんでした。永遠の命への道は死であると分かりませんでした。イエス様が本当に3日目に甦る事が出来ると知りませんでした。理解する方法とは、イエス様に聞く事です。聞いてイエス様を信頼する事です。ですから、父なる神様は天から話して下さいました、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

弟子達の問題は聞かない事でした。私達にも同じ問題があります。3つぐらいのレベルの問題です。まず、肉体的に神の御言葉を耳で聞こえない事です。この聞くことの欠落(けつらく)は、福音を知らない事です。イエス様について知らない、神様の愛、自分の人生の為の神様のプランも知らない事です。ですから福音を述べ伝え、福音を教える事が大切です。自分の子供に教えます。家族に教えます。人を教会に誘います。又、神の御言葉を聞くのに役立つのは、説教者に大きい声がある時、又は教会の音響(おんきょう)やスピーカーを正しく設定する時です。説教の間に聞いている人が寝ないように、面白い説教をする事も良いでしょう。(*恥*)

聞く事にたいする二つ目の問題とは、理解しない事です。理解しないと、み言葉は片方の耳に入って他方の耳から出ていきます。例えば、ベルの音を聞きますが、それが食事の準備が出来たベルであると知らなければ、食卓に行かないで何も食べられません。ですから福音のメッセージを説明する必要があります。私達の為にイエス様が十字架上で死んだ事は、私達の為にどの意味があるでしょうか。神様が私達を愛して下さる事には、私達の為にどの意味があるでしょうか。私達の為に、聖霊は何をして下さいますか。福音を理解する方法とは、聞いて聞いて聞いて聞く事です。聖書の話しを何回も繰り返して聞くと、聖書は私達の生活の一部になりあす。

聞く事にたいする3つ目の問題とは、聞こうと思わない時です。これは一番ひどく悪いものです。自分がもう既に全部を知っていると思って、もう神様に聞かなくても良いと思う事です。又、聞く事が嫌いで聞く事を否定する事です。自分が悪い事をしようと思う時、罪深い事、道徳に反する事をしようと思う時、神様の律法を聞きたくありません。自分の良心を患わせないように、手で耳を覆います。山の上の説教の言葉は、自分が誰かに仕返ししたいと思う時、他方のほほを向けたくない時、また何かを盗もうと思う時に、邪魔になります。そのような時、イエス様のことばを聞きたいと思いません。

もし私達がイエス様の言葉を聞かないのでしたら、誰の言葉に耳を傾けるでしょうか。それは悪魔やこの世や自分の罪深い心に聞く時です。しかし、この世を見て下さい。この罪深い世の中でうまく生きる為に、この世から良い助言を聞く事が出来るでしょうか。うまく生きる為に、悪魔やこの社会や自分の知恵が私たちに何を教える事が出来るでしょうか。

本当に聞く事とは、耳で聞く事と違います。聞く事とは、従う事です。聞く事とは、命令に従う事です。 例えば、お母さんは子供に言います、「聞きなさい!部屋をかたつけしなさい」と言う時、その命令の言葉を聞いて、従う事です。コーチが言います、「君たちよく聞きなさい。これからのプランはこれです。」同じように、私達が本当にイエス様の言葉を聞く時、イエス様の命令を聞きます、イエス様のご計画を聞きます。私達の罪の為にイエス様が苦しみを受けて死ぬプランを聞きます。 3日目に復活するプランを聞きます。永遠の救いを持って、最後の日にこの世に帰るプランを聞きます。そして、本当に心から聞くのでしたら、良い知らせが本当に良いと分かります。これは信仰を持って聞く事です。どのように聞くかというと、イエス様に従って、イエス様の言葉に忠実に生きるのです。どうしてイエス様に聞くかと言いますと、救いと永遠の命についてでしたら、イエス様は唯一の権威者であるからです。イエス様に聞いて、彼の言葉を信頼します。彼が苦しみを受けて、死んで甦ったので、イエス様に聞いて、彼の言葉を信頼します。

お母さんは「聞きなさい」と言うと、私達は聞きます。何故ならば、しないとやばいからです。お母さんが怒っているからです。神様は「これは私の愛する子。これに聞け。」と言われますと、私達は聞きます。何故ならば、神様が私達を愛するからです。神様が私達を助けるからです。ですから、神の御言葉は良い知らせです。ですから、神のみ言葉に聞く事に価値があります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト