乾き

受難節第3主日、2014年3月23日

ヨハネ4章

今朝、説教者としての仕事とは、あなたがたの喉を渇かせる事です。今日の福音書の日課には、イエス様がサマリア地方のヤコブの井戸にいます。そこで、その町の女の人と話しました。のどの渇きと、永遠の命に至る水について話しました。その女はその水が欲しいと思いました。まず彼女は怠け者であるからです。次に彼女は興味があって、そして最後に、神様を礼拝したいと思いました。

イエス様も喉が渇きました。歩いて旅をしたので、暑くて疲れていたでしょう。しかし、その上にイエス様は福音を述べ伝える事の為にも渇きます。それは山上の説教の中の幸いの言葉のようです。マタイ5:6、「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」それで、イエス様はこの女に、いろいろについて話しました:本当の礼拝、救いの源と聖霊でした。そしてイエス様の話を聞いて、その女の人はイエス様がメシアであると信じるようになって、霊的な渇きが癒されました。この会話によって彼女の人生の状態を理解して、彼女を裁かないで、神様の愛の為に渇かせて、そして福音の愛によって、又御自分の愛の憐れみによって、イエス様は彼女の渇きを癒して下さいました。

今朝、説教者としての仕事とは、あなたがたの喉を渇かせる事です。皆さんにポテトチップやドリトチップを食べさせる事が出来るでしょう。暑い太陽の下にいる時、激しい仕事や遊びの後に、喉が渇き、体に本当に必要とするのは水です。それで沖縄に多くの人々が、いつも水のボトルを持っています。教会に来る時もそうです。それが良いでしょう。しかし喉が渇く時、私達はよく別の物を飲みたいと思うでしょう。チップを食べたら、コーラやビールが美味しいでしょう。しかし、実は、その飲み物は更に私達を乾かせる事が出来ます。疲れて喉が渇く時、私はよくコーヒを飲みます。しかし実は、コーヒを飲みますと、いつも喉が渇きます。それで暑いコーヒの後に、冷たい水の一杯が本当に美味しくて、気分をリーフレシュさせます。

言いたいと思うのは、喉が渇く時、私達は尚更に喉を乾かせる物を飲んでしまう事です。これは体の渇きだけではなりません。すべての渇きと欲望と性欲と貪欲とむさぼりです。いろいろな渇きがあります:霊的な物を始め、宗教的な物、精神的な物、哲学的な物、自分の空想的な物もです。

イエス様が最初にその生きている水について話した時、彼女がそれを欲しいと思ったのは、怠け者であるからです。言いました、ヨハネ4:15、「主よ、渇く事がないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」私達も怠け者です。神様は私達にすべての必要な物を下さるようにして欲しいと思います。大体の人々にとっては、それは宗教の目的です。この人生の必要な物を得る方法です。ですから人は祈ります。私達はそれが分かります。多くの物を欲しいと渇きますので、体の癒しでしても成功の為にでしても、神様にお願いします。私達はそれをするのは、それをするように主の祈りの中でイエス様が私達に教えて下さったからです。「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と。しかし、その渇きが癒されているのは、人生に必要な物の全部が神様から来ると分かる時です。

女の人にイエス様が預言者であると分かる時、多くの宗教的な事に興味がありました。実は私達にも、神様について知らない事が多いです。彼女と違って私達は、この事についてイエス様と論争する事が出来ませんので、私達は聖書を読んだり、説教や聖書のクラスで聞きます。彼女の質問は、ユダヤ人とサマリア人がいつも喧嘩する物でした。両派は真の神様を礼拝しましたが、礼拝の場所について喧嘩しました。イエス様はこのように答えました。ヨハネ4:21−24。

21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

キリスト信者達の性格ですが、キリスト信者達が神様を礼拝したいと思う事です。それも渇きのようです。私達は教会に通って、来るたびにその渇きを癒してもらいたいと思います。どして渇くでしょうか。それは人生に満足がないからでしょう。社会の中には、私達を助けようとする物が多いです。テレビのCM を見たら分かるでしょう。食べ物を始め、車、旅行、洋服、おもちゃ、楽しみ、健康、美、愛、友達、お金など。しかし、キリスト信者にとっては、このような物が全部そろっても、まだまだ別の物の為にも渇きます。

神様の愛と赦しの為に渇きます。

罪の性格は私達の心を渇かせます。良心が悪いからでしょうか。罪が知られたら怖いからでしょうか。淋しさでしょうか。自由がないから、その圧迫でしょうか。そのイライラの気持ちでしょうか。自分の失敗でしょうか。とにかく、自分の罪を感じる時、それを捨てたいと思います。洗い落したいと思います。もう一度フレシュになりたいと思います。力が欲しいと思います。それでその渇きがあります。心の平和と力を与えて下さる物が欲しいと思います。

イエス様はその渇きを知ります。十字架上にいる時、御自分の上に世の罪がありました。叫びました、「私は渇く」と、ヨハネ19:28。その渇きを癒したのは、兵士達が与えた酸いぶどう酒ではありません。犠牲が終わった時の罪の赦しです。「成し遂げられた」と言われました、ヨハネ19:30。

これこそ元気を与える赦しです。生きている水です。洗礼です。聖餐式です。聖霊です。神様の約束の御言葉です。井戸の所で女の人に与えたイエス様の贈り物です。言われました、ヨハネ4:14、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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