テント

2012年6月17日

第2コリント5:1-10.

1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

皆さん、聖書を今日の第二日課に開きましょう。第2コリント5:1-10.

第1節を読みます。

1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

皆さんはテントが分かるでしょう。キャンプしてテントの中に泊った事があるでしょうか。テントとは、借りの住宅と言えるでしょう。一晩か一週間で泊りますが、一生涯でテントの中に住むはずがありません。キャンプで一週間テントに溜まりますと、早く家に帰りたいと思います。家でしても、アパートのビルでしても、ちゃんとした いつもある建物です。水道があり、電気があり、エアコンがあり、柔らかくて温かい布団があります。

聖パウロにはテントを作る職業がありました。この聖書の箇所で、彼は例え話のように人生を描きます。そのテントとは私達の地上の体です。キャンプが終わりますと、家に帰る前に、そのテントをかたづけます。私達が私達の永遠の家に行く時、この地上のテントのような体がもう要りません。何故ならば、「神によって建物が備えられている」建物があります。私達の永遠の天国のマンション、住まいがあるからです。

第2節と第3節を読みます。

 2私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3それを脱いでも、私達は裸のままではおりません。

もしかしたら、聖パウロはもう老人になっていたでしょうか。彼の年を取った体は古いテントのようで、風と嵐に破られています。直して破れた所や穴もあるでしょう。雨もりするでしょう。聖パウロは病気で実際に苦しみもだえているでしょうか。もしかしたら、死にましたら、その古いテントは古いコートのように脱いで、天国の住まいの新しいコートを着る事が出来るでしょう。私達皆は年を取ると、この気持ちが良く分かるでしょう。

4節を読みます。

 4この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

ある宗教は体が邪魔な物として考えています。聖パウロの時代の哲学者の内に、この物質的な体を大きな悪のように考えました。グノーシスの宗教は、体は全然大切ではないと思いました。仏教はNirvana の楽園での自由は何かの無の状態だと考えます。又、ヒンデュ教は、輪廻(りんね)を教えます。この教えは全部、聖書にないものばかりです。聖パウロは、その教えを全部「裸のまま」と呼びます。体のない魂は、聖パウロには考えられない事です。魂には体が必要です。それは、地上の体でも天国の体でもいいです。一時的なテントの体が、永遠の建物の体になります。死んだ人は体のないお化けでも幽霊(ゆうれい)でもありません。聖書は体の甦りを教えます、それを使徒信条のなかで告白します。

5節から7節まで読みます。

5私達を、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。6それで、私達はいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

聖パウロは体をとうしてうめいています。体が痛みます。福音を述べ伝えたので殴(なぐ)られて鞭打たれた事が沢山ありました。又、そのコリントの教会の問題について心配しました。それなのに、6節でこのように言えます、「私達はいつも心強いのです。」うめきながらも心は強いでした。自分のぼろぼろになったテントの中に住む事で嬉しかったです。私達にも同じ心強い勇気があります。勇気があるのは、天国の家があると分かるからです、天国の栄光の体が私達の為に待っていると分かるからです。ヨハネの福音書14章1-3節で、イエス様はこのように言われました。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」

確信を持ってイエス様の言葉を信じるのは、「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」この約束、この契約が聖礼典によってサインされて、ハンコが押されています。キリストは私達に聖霊を送りましたので、私達は福音を信じます。聖霊がいるので、もう既に天国のマンションの玄関のカギを持っているようです。イエス様は天に昇りましたので、物質的に私達と共にいませんが、聖霊がいます。それで生きる為に心強い勇気があります。7節が言う通りです、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

8節と9節を読みます。 <p>8私達は、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

たしかに天国はこの地上より良い所です、そこで「主のもとに住む」からです。しかし、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」のです。これは私達の地上で住む理由です。神様が私達に体を与えた理由です。体があるので、神様に喜ばれる働きと、奉仕する事が出来ます。これは私達の人生の目的です。私達のゴール、私達がやりたいと思う事です。聖パウロは早く死んで天国に行きたいと思わなかったです。自殺の思いが全然ありませんでした。このコリントの教会への手紙を書いた後に、まだまだ数年主に使えました。それは彼の人生の喜びでした。それで、良いテントを作る職人として、自分に与えられたテントの破りを直して、その整備(せいび)を管理(かんり)しました。

10節を読みましょう。

10なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

裁きの日が来ます。私達の地上での行いが大切です。報いを受けるからです。良い事の一つは、私達は「の裁キリストきの座の前に立つ」からです。キリストが私達の裁き主である事は大切です。何故ならば、キリストが憐れんで下さる裁判官であるからです。

キリストもテントの中に住みました。ヨハネの福音書1:14は日本語でこのように普通に翻訳されています。 「言は肉となって、私達の間に宿られた。」 新約聖書のギリシャ語の直接な翻訳は、「彼は私達の間に自分のテントを張りました。」イエス様は来られて、私達と同じのキャンプ・グラウンドで私達と共にいました。ですからイエス様は人間の生き方が分かります。テントのように、暑くなければ寒いので、狭くて不便です。イエス様は私達の痛みと苦しみとうめきが分かります。しかし、キャンプの楽しみもあります。そしてイエス様は私達の誘惑をも知ります。イエス様は決して罪を犯しませんでしたが、私達の誘惑が分かり、私達を哀れみます。

十字架はテントのポールではありませんでした。キリストは裁きの座の前に立ちました。ユダヤ人の大祭司の前にもピラトの前にも立ち、又、キリストを信じるか信じないかと信仰の決心するすべての人の前にも立ちます。善であれ悪であれ、私達が体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、イエス様はその報いを受けました。

イエス様は十字架上で死にましたが、お墓はイエス様の永遠の住まいになりませんでした。3日目に栄光の体として甦られました。その体は目で見え、手で触れられる物でした。話す事が出来る体でした。又、弟子達の上に福音を述べ伝える聖霊による権利を吹きかけました。それで、聖パウロは6節で書く事が出来ました。「6それで、私達はいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト