ぶどう園の農夫の例え話

2010年3月21日、受難節5C
ルカ20:9−19


9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。

どうしてイエス様が十字架上で死んだでしょうか。教会学校の生徒達はその正しい答えを知っています:私達の罪を赦す為に、又、私達に永遠の命を与える為に死にました。しかし、大人は更に聞きます:どうしてイエス様が死ななければならないでしょうか。又、どうして十字架の上の死に方が必要でしょうかと。今日の福音書の日課にイエス様は答えて下さいます。イエス様が死んだのは、それは父なる神様の意志だったからです。イエス様が十字架上で死んだのは、それは、ご自分の死の結果、その実が世の救いになる為です。

イエス様はぶどう園の農夫の例え話を話しました。その宗教の指導者達は、権力に対する願望の強い、ねたむ愚か者だったでしょうが、頭が悪い訳ではありませんでした。イエス様がこの例え話を話しますと、すぐにその意味が分かりました。「ぶどう園を作った人」とは、主なる神様です。「ぶどう園」とはイスラエルの民です。「農夫達」とは、そのぶどう園を管理する人、即ち、神様の民を指導する義務がある人です。「ぶどう園の収穫」とは、イスラエルの民の生活でした。その収穫の実とは、まず、信仰です。そして信仰の全部の業です。ガラテヤ5:22は、9つの聖霊の実をリストアップします、即ち、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。

イスラエルの宗教の指導者の仕事は、その民が良い実を結ぶために、その民を助ける事です。農夫は畑を管理します:水を与え、肥料を与え、耕して、雑草を取ります。即ち、神様の御言葉を教えたり、訓練したり、場合によって厳しくしたり、場合によって愛したり、やさしく世話をしたり、勇気を与えたり、守ったりする事です。「送られた僕達」とは、旧約聖書の預言者です。エリヤ、イザヤ、エレミヤの預言者達は、民が神様に人生をささげるように要求しました。信仰と信仰の業である聖霊の実を要求しました。宗教の指導者も国の指導者も、その預言者達とよく戦いました。アハブの王様はエリヤを殺そうと思いました、エレミヤは、カラの井戸に投げいれられました。彼等はほかの預言者達も同じように扱いました、又、無視しました。例え話のように「何も持たせないで追い返した」のです。

ぶどう園の主人が言いました、「どうしようか。」と。即ち、その泥棒の農夫の為に希望がない事です。「わたしの愛する息子を送ってみよう」と計画しますが、「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と同時に、敬ってくれない可能性があると分かります。主人が息子を送る事が危ないと分かります。そして、農夫が言います、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」主人が死にますと、その土地にクレームに付けて、そのぶどう園を自分の物にして、もう、主人の要求に邪魔されません。「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」

では、その「息子」とはだれですか。イエス様です。神様はイスラエルの民からの収穫を受ける為に、イエス様を送りました。イエス様はその収穫を始めて言われました、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。「悔い改め」とは信仰です、「信じる」事とは、その信仰によって自分の人生を送る事です。その人生は、信仰と信仰の業で満たされています、そして、その信仰の実とは、聖霊の実です、即ち、「愛、喜び、平和」などです。

ユダヤ人がイエス様をローマ人の手に渡した時、彼をぶどう園の外にほうりだす事のようです、イスラエルの外に投げ捨てる事のようです、イエス様に対して不信者、異邦人の扱いです。ローマ人がイエス様をユダヤ人の為に殺しました。ユダヤ人がイエス様の話を聞きたくなかった理由とは、彼らは神様の御言葉と神様の要求を聞きたくなかったからです。自分で全てをコントロールしたいと思いました。例え話の主人が「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与え」ます。その時、ユダヤ人達は「そんなことがあってはなりません」と言いました。イエス様の例え話の意味が分かりました。イエス様が意味するのは、ローマ人がイスラエルの国を破壊して、異邦人がイスラエルの聖地を支配する事です。また神様の民の霊的なケアが、ユダヤ人の指導者から取られて、使徒達に与えられる事です。その意味とは、神様の救いの良い知らせが異邦人に与えられます。そして、異邦人は収穫の実を神様に与えます。異邦人は信じて、礼拝を始めて、人生のすべてに於いて、その信仰を生かします。それで、救いの福音があなたと私のようなユダヤ人ではない異邦人にも与えられています。

何代に渡って、多くの人々はクリスチャンの福音を信じませんでした。そのメッセージの中には、不信者達にへんと思う事があるでしょう。勿論、信者達は、難しくてへんに見える物でも受け入れます。それは神様が言われる事だからです。信じて神様に信頼しますので、この世の人々がへんと思うものを受け入れます。例えば、科学者達が見る事が出来なくても、神様がこの世を創造して守って下さると信じます。又、心理学者達が、人が自分の人生の運命を決めて、自分が自分の神であるように自分の人生を支配すると言いますが、私達、クリスチャンが信じるのは、神様が私達を愛して、試練によって訓練して、導く事です。道徳があると信じて、それは自分の富と自分だけの幸せを得る事よりすぐれている道徳です。その道徳があるので、私達は敵を愛して、私達の愛が必要とする人を愛します。神様は私達の振る舞いを見て、それを感心します。神様は真面目に罪を考える事を信じます。しかし、神様が私達罪人を罰するよりも、私達を赦したいと思うと信じます。神様が御自分の息子を送られたと信じます。私達がイエス様より約2千年後に生きていましても、私達の罪のせいでイエス様が殺されたと信じます。イエス様の死が私達に赦しを与えると信じます。その死が私達に命を与え、彼の復活が私達に永遠の命を与えると信じます。イエス様が世の終わりに戻る時の永遠の命を待ち望みます。このイエス様が捨てられました、まずユダヤ人に、ローマ人に、そして多くの人に捨てられました。形が悪い、ひびがはいている石のように、建設にふさわしくない石が捨てる事のように、イエス様が役に立たない、邪魔な物のように捨てられました。しかし、この石こそは、「隅(すみ)の親石」となりました。神の国の建設に、最も大事な石になりました。これを信じるのは、聖霊が私達に信仰を与えたからです。そして、神様の愛を理解する為に、聖霊が私達に知恵を与えて下さいました。

例え話の農夫達は、その息子をぶどう園の中で殺しません。「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」と。ですから、イエス様はローマ人によって、ローマ人の死刑の方法で殺されました。このようにして、イエス様がユダヤ人にも、異邦人にも殺されました。それで、異邦人である私達の罪と不信仰も、イエス様を殺しました。しかし、イエス様の死は、その罪を赦す犠牲でした。それで、イエス様の犠牲は、ユダヤ人の救いの為にも異邦人の救いの為にもなりました。異邦人である私達も救われています。イエス様が捨てられた建設の石のようでしたが、私達の人生の為に最も大切な石になりました。私達の土台、私達の隅の石、すべてを完成して結ぶアーチの親石です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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