「ぶどう園と農夫」の例え話

2011年10月2日
マタイ21:33−46

2000年前にイエス様は約このたとえ話を語りました。現代に生きる私達がこのたとえ話を理解する為に、その時の時代背景を学ぶ必要があります。ですから、今日、この例え話を4回、4階段で見たいと思います。1簡単な話のように、その時代の背景と生活習慣と歴史を学びます。2イエス様が最初に語った時の意味と、それを最初に聞いた人たちの理解を学びます。3教会の為の教訓を学びます。そして、4現在のクリスチャンの為に、即ち、あなたと私の為の意味を学びます。

1「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」その家の主人は、そのぶどう園を造る為に、大きな投資をしました。沢山のお金がかかります:ふどうの苗を植えたり、守る為の壁と監視塔、そして、絞り機です。農夫達は、収穫の決まった分を家賃としてを払うでしょう。しかし、欲張りになって、いない家の主人に払わなくてもいいと思いました。この欲張りは、主人の僕や息子に対するひどい扱いと殺人になりました。息子が来る時、互いに企みました。「これは後取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺しました。息子をぶどう園の外にほうり出す事に意味があります。それは、その息子がぶどう園の中では、彼らの上に権威があると認める事です。それで、外に出すと、自分たちの自由に出来ると思いました。では、主人は今度、何をするでしょうか。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を治めるほかの農夫達に貸すにちがいない」と。

2イエス様は、十字架上で死ぬたった数日前に、この例え話を話しました。それを聞いた祭司長達やファリサイ派の人々は、イエス・キリストがこの例え話を通して、自分達に話している事が分かりました。イエス様を捕らえたいと思いましたが、群衆を恐れました。群衆はイエス様が神様からの預言者であると思ったからです。皆はこの例え話をよく理解しました。家の主人は神様で、農夫達はユダヤ人、特に、ユダヤ人の宗教的な指導者、その祭司長達やファリサイ派の人々です。又、旧約聖書の中では、ぶどう園はイスラエルの国です。神様はイスラエルの国に大きな投資をしました。その垣と見張りのやぐらは、敵からイスラエルを守る神様の守りを表します。絞り機は、神様の愛と守りの結果を表します。神様が欲しいと思った収穫の実とは、愛を始め、礼拝、律法を守る事、正しい信仰を持つ事です。イスラエルの歴史の中では、神様は多くの預言者や指導者を送りました。彼らは人々に話して、主なる神様を信じるように、律法に従って生きるように思い起こさせました。   良い例の一つは、今日の旧約聖書イザヤ5章です。ある時、人々はその預言者を尊敬して、悔い改めて人生を変えました。例えば、バビロニアの捕囚の後、皆さんは預言者になったエズラとネヘミヤの話を聞いて、生き方を変えました。しかし、ほかの預言者達を袋だたきにし、辱めをし、殺しました。例えば、ある時、預言者エレミヤが地価牢に長い間に入れられて(37:16)、別の時、水がない泥の深い水溜めに入れられました(38:6)。(歴代誌下24:21によりますと、遇像礼拝に反対して、皆さんが悔い改めるように要求した時、預言者ゼカリヤが神殿の中で、石で打ち殺されました。イスラエルの罪の結果として、神様は色々の国の軍隊、シリヤ、バビロンなどを送ってイスラエルを破壊hakaiしました。イスラエルが悔い改めると、神様は再び御自分の愛された民を祝福して、彼を信じる新しい指導者を立てました。)しかし、この様なことが何回も繰り返されたので、最後に、御自分お御子、イエス・キリストを送りました。イエス様はイスラエルの罪に対して話しました。悔い改めように、人生の中で、良い実を結ぶように、その収穫を、礼拝と奉仕として、神様にささげるように、人々にすすめました。山上の説教や主の祈りによって生きるように要求しました。しかし、祭司長達やファリサイ派の人々はイエス様を拒否する事によって、イエス様を送られた主なる神様をも拒否してしました。イエス様の権威を認めませんでした。自分達が宗教的なすべてのものを支配したいと思ったからです。エルサレムの町の城壁の外で、ゴルゴダの丘でイエス様を十字架上で殺しました。イエス様の例え話は予言になりました。何故ならば、神様の息子を拒否したので、神様はそのぶどう園をユダヤ人から取って、クリスチャンに与えました。多くのクリスチャンは異邦人でしたが、神様を信じて、礼拝して、自分の人生の実を神様の栄光の為に神様に与えました。

3教会はぶどう園の新しい農夫になりましたが、この例え話は教会にも警告となります。神様は教会に大きな投資をしました。御言葉を始め、聖礼典と聖霊をも与えました。そして僕を送りました。例えば、牧師、教師、改革者などです。彼らは、教会が神様にぶどう園の収穫を送るように覚えさせます。神様は聖霊の実を見たいと思います。(ガラテヤ5:22)。神様は伝道を見たいと思います。愛を見たいと思います。教会はいつも気をつけなければならないのは、イエス様をぶどう園の外にほうり出して再び殺さない事です。これが起こるのは、十字架とイエス様の赦しが述べ伝えていない時でし、又、イエス様の十字架上での犠牲が必要にならないほど、別の教えや習慣が強調されてしまう時です。教会の歴史の中には、この様なことがありました。例えば、プロテスタント宗教改革の前に、罪の赦しや煉獄からの自由をお金で買う事が教えられました。買う事が出来ましたら、イエス様が十字架上で死ななくても良いです。又、救いを得る為に良い行いをしようと思う人がいます。又、ある時、聖霊の栄光を強調して、イエス様の十字架上での恥と苦しみを忘れます。しかし、イエス様は警告します。新しい教会の指導者を立てる事です。又、もう一つの例ですが、 ヨーロッパとアメリカの教会の堕落の代わりに、アフリカの教会の成長が速いです。16世紀には宗教改革がありましたが、21世紀にも必要でしょう。即ち、愛、正義と誠の礼拝が必要です。

4最後に、個人のクリスチャン、あなたと私の為に、この例え話の意味です。私達はぶどう園の農夫で、神様に収穫を収めなければなりません。神様は私達の人生の為に投資しました。御言葉、聖礼典、聖霊をも下さいました。又、神の国の利益の為に、私達にタレントと腕前を下さいました。聖霊の実を結ぶ人生、主に栄光を与える人生、隣人を愛する人生の為です。この責任を思い起こす為に、神様は私達に色々の人々を送ります。そして、この人々は、それが出来るように、私達を助けます、力を与えます。その人々とは、牧師、教会の会員達、教会学校の先生、親、友達、本やテレビやインターネットで出会う人などです。何故ならば、人は神様の御言葉を話す時、信仰を与える聖霊がいるからです。しかし、欲張りや自己中心いましたら、神様なしに自分の人生を支配したいと思う時、イエス様が要らないと思う時、イエス様を自分の人生からほうり出して、再び殺すことのようです。

しかし、福音の良い知らせとは、信仰と真実と忠実を造る為に、神様は御自分の一人息子をこの世に送って下さった事です。人間から拒否されましたが、キリストは私達を拒否しませんでした。イエス様は御自分の上に私達の罪を取って、赦して下さいました。復活によって神様に、私達が与える事が出来ないものを与えました。御自分の死と復活の収穫を与えました。平和を与えました。赦しを与えました。それは福音です、即ち、私達が完全に与えるべき物を、神様に与える事が出来なくても、イエス・キリストによって、神様はイエス様の死と復活の収穫を私達に与えて下さいました。即ち、永遠の命と救いです。神様が私達にこれを与えたので、私達は神様に誉れ、栄光、祈り、奉仕、と聖霊の実を与える事が出来ます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


Home Index Page ホーム