神殿に希望を置いてはいけません

2021年11月14日

マルコ13:1-13

皆はサイト・シイング観光が好きでしょう。自然の中の神様の素晴らしい創造があり、町の中には神様から下さったタレントを利用して人間の作った素晴らしい物もあります。 美術館、歴史にとんだ場所などは面白くて、多くの事を教えます。歴史から学ぶ事が出来ます。沖縄の古いお城の跡がいくつかあります。首里城、中城城等です。建て直すか、そのままにした方が良いでしょうか。昔の栄光とプライドを覚えながら、その破壊された跡は人間のプライドと愚かな思いを覚えさせます。

今日の福音書で、イエス様の弟子達がエルサレムに訪ねています。マルコ12:1*2、『 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。《イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。《』

現在、古いエルサレムの神殿の壁の一部しか残っていません。言われている「嘆きの壁《です。しかし、イエス様の時代に、その神殿が一番美しい時でした。

神殿は白い大理石(だいりせき)で建てられて、金で飾られていました。ヘロデ大王は46年間かけて神殿を建て直しました。それで、イエス様が生まれた時に完成されて、生まれた40日目に、イエス様が両親にそこに連れられて、最初に生まれた子として神様にささげられました。神殿はユダヤ人にとって、とっても大切な物でした。自分の宗教や自分の国のシンボルでもありました。神様は自分達を守って祝福してくださるシンボルでした。国のプライドと確信とアイデンテチのシンボルでした。

弟子達や全てのユダヤ人にその確信がありました。神殿がある限り、神様はエルサレムとイスラエルの国を守ると信じました。忘れていたのは、587年BC、バビロニアの軍隊が町も神殿も破壊しまして、人々を奴隷としてバビロニアに連れていかれたことです。又、忘れたのは、神殿を建て直しても、167年 BCに、シリアの王、アンティオコス4世エピファネスはエルサレムに侵入して神殿にゼウスの偶像を立て、豚を祭壇に犠牲して、神殿を汚しました。又忘れたのは、ローマが彼らの国を今支配している事です。しかし、多くの弟子達の希望とは、メシアとして、イエス様がイスラエルの昔の栄光をとり戻す事です。マルコ13:1-2、

「1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。《

イエス様は彼らの希望を壊しました。言われました、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。《

その通りになりました。西暦AD70年、ローマの軍隊は神殿を完全に破壊(はかい)しました。金を奪ったり、綺麗な大理石を別の所で別の建物を作る為に運んでしまったりしました。残ったのは、一面の壁です、言われている「嘆きの壁《です。そして、第二世界戦争の後までに、イスラエルの国は四方八方(しほうはっぽう)に散らさいったのです。

イエス様は言われました、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。《

弟子達はイエス様の言葉を信じましたが尋ねました。「おしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。又、そのことがすべて実現する時には、どんな徴(しるし)があるのですか。《イエス様は日時(にちじ)を言われませんでしたが、徴を教えました。たとえば、偽者のメシヤ、戦争や戦争のうわさ、地震、迫害、裏切り、信仰の告白と信仰者の忍耐など。弟子達の生きていた時代に、その徴が全部、もう既に実現しました。

私達の時代にもこれらの徴を見る事が出来ます。弟子達のように、私達も現代の社会に素晴らしくて美しい建物を沢山見ます。それらの建物を誇りに思います。しかしこれらの建物は永遠まで残るでしょうか。この私たちが誇りに思っているものは明日にも廃墟(はいきょ)になってしまわないでしょうか。私達の家族はどうでしょうか。私たちが誇りに思っていることは永遠に残るでしょうか。神様の御前に最後まで残るでしょうか。私たちには神様から与えられたいろいろな才能やタラントがあります。しかし艱難(かんなん)の時には 何が起こるでしょうか。問題や心配ごと、病気、自然(しぜん)災害(さいがい)など。私たちの信仰の故(ゆえ)に悪い事が起こったら、どうでしょうか。良い証が出来るでしょうか。聖霊に信頼して語るべき言葉をいただけるでしょうか。最後まで忍耐して救われることが出来るでしょうか。又は、私達の人生もあのふるい神殿のように廃墟(はいきょ)になってしまうでしょうか。

イエス様は終わりが近い事を知っておられました。御自分がもうすぐ逮捕されて、裁判にかけられ、十字架にかけられるのを知っていました。人間として、痛みと辱(はずかし)めを受ける事を知っていました。またそれが神様のご計画であることも知っていました。イエス様の体である神殿が十字架の上で死ぬ事によって破壊(はかい)される事も、しかし死の廃墟(はいきょ)として とどまらない事も知っておられました。三日目に死から甦る事を知りました。エルサレムの古い神殿が もはや必要が無い事、なぜならイエス様がすべての時代のすべての罪を赦すために完全な犠牲としてささげられたからです。

イエス様の十字架は単なる観光スポットではありません。たんなるキリスト教の歴史と文化を観察する場所ではありません。イエス様の十字架に人間のおごりの結果、愚かさ、と罪を見ます。十字架の中に私たちの自己中心的な人生の廃墟を見ます。十字架を見ると、世の終わりが近い事を見ます。しかし十字架は復活を指し示してくれます。イエス様の復活は過去をしるす博物館ではなく、キリストを信じる私たちのための今の人生の道しるべです。教会は博物館ではなく、むしろキリスト・イエスを信じ、活動するための建物です。聖霊はこの世代に語るべき福音を私たちに下さいました。ここにあるのは警告の言葉、希望の言葉、約束の言葉、愛の言葉です。

この時代、私たちの人生には偽預言者の脅威(きょうい)があり、戦争や戦争のうわさ、地震、飢饉(ききん)、疫病(えきびょう)、裏切りと迫害があります。家庭や職場や学校には問題があります。これらの問題は私達の信仰への挑戦です。しかし洗礼によって、聖霊は勇気と信仰による忍耐(にんたい)と信仰の証をする力の賜物を下さいました。

「いつこれらのことが起こりますか?《主の祈りで祈ります、「み国を来たらせたまえ。《神様が来られて私達の心や私達の人生の王様になりますように祈ります。教会の宣教の為に祈ります。恵みの国が多くの人に述べ伝えるように祈ります。又、天国の栄光の国を待ち望みます。世の終わりが明日でしょうか、今から500年先でしょうか。それとも、個人的に、私達が死ぬ時に神の国が来るでしょう。未来は神様の御手にあります。ですから、心配と恐れ無に生きる事が出来ます。何故ならば、私達は神様の約束と救いを知るからです。

それで、今日の旧約聖書の日課ダニエル12章の預言は、私達クリスチャンの為に、慰め、希望と喜びのメッセージになります。天使ミカエルについての預言は、イエス・キリストによって、その救いの働きによって完全に成就されています。ダニエル12:1-3。

『その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護(しゅご)する。その時まで、苦難(くなん)が続く/国が始まって以来、かつて なかったほどの苦難(くなん)が。しかし、その時には救われる であろう/お前の民、あの書に記(しる)された人々は。多くの者が地の塵(ちり)の中の眠りから目覚(めざ)める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪(ぞうお)の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。』

アーメン。           

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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