私達がイエス様と同じように誘惑されて、テストされています

2016年2月14日
  受難節第一主日


福音書  ルカ4: 1~13(新107)
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」 4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

イエス様は40日間、荒れ野で、悪魔にこころみられていました。今日は聖金曜日や復活祭の40日前です。この時期、同じように、悪魔は私達を誘惑して、こころみます。

ルカ4章には、3つの誘惑やテストがあります:石をパンにする事、悪魔を 拝む事、そして、神殿の屋根から飛び降りる事です。即ち、お腹が空いている苦しみを解放する為に、自分だけの為に奇跡をする事、十字架の苦しみから解放される為に悪魔のしもべになる事、又、苦しみから解放される為に天使に救われるかどうか分かりませんが、飛び降りて自殺する事です。石をパンにする事は、罪を犯す誘惑ではありませんでした。だって、イエス様の最初の奇跡は水をぶどう酒にする事でした。それで、「誘惑」と言う言葉よりも、「こころみ」や「テスト」の方が良いかも知りません。もしかしたら、悪魔はイエス様の事を疑って、イエス様が本当に「神の子」であるかどうか確認したいと思ったでしょう。また、もしかしたら、イエス様にご自分が本当に神の子であるかどうかを疑わせて、それで、イエス様は疑いを持って、御自分の奇跡の力、神様に対する忠実さ、本当に父なる神様を信頼する事が出来るかどうかを試す事でしょう。それで、この誘惑とはイエス様が、自分が本当に救い主のキリストであるメシアであるかどうかを疑う事です。この世界をご自分の物にするには、十字架上の苦しみと死による事ではなく、ただ、悪魔を拝む事ですむ事です。

私達はよく悪魔に似ています。私達はいつもイエス様をテストします。彼が本当に私達の救い主であるかどうか確認したいと思います。イエス様が本当に神の子か。石をパンに出来るか。私のお腹が空いている時、イエス様は私の為にサンドウィッチを作る事が出来るか。お金が無い時、私の銀行口座にお金を振り込むでしょうか。つかれている時に力を?危ない時に守りを?もし私が崖から飛び降りましたら、救う為に天使を送るか?聖書の中の奇跡を知りますが、私の為に奇跡をして下さるでしょうか。もしイエス様が神様の子ならば、私がこの世の荒れ野に入る時、淋しい、お腹が空いて、必死で、困った時、私を助けて下さるでしょうか。この世の中には、多くの人々は病気で苦しんで、ガンで苦しんで、圧迫されて、いろいろな恐れがあります。どうして神様はその無罪で、可愛そうな人を助けて下さらないでしょうか。どうして良い人に悪い事が起こるでしょうか。神様の愛がこころみられています。イエス様をテストします。イエス様は本当に全能の神様の子でしょうか。

又、私達に対する誘惑とは、イエス様の事を諦める事でしょうか。私達の信仰のテストです:神様を信仰しないように誘惑されています。もし神様が私達を手伝わなければ、自分で石をパンにするように考えさせます。自分で自分を救うように考えます。もし私達は神様を信頼する事が出来なければ、危険の時、神様の事を諦めるので、神様に祈りません。誘惑とは、悪魔を拝む事です。それは、罪深い方法で、この世界のもの、その贅沢のものとこの世の力を得る為にです。罪は、悪魔を礼拝する事です。私達の主なる神様に従わないで、自分の主人として悪魔に従う事です。

悪魔はクリスチャンである私達を誘惑する時、罪を犯すようにだけ誘惑しません。悪魔は多くの人々が悪い事をするように誘惑します。クリスチャンの信者の場合には、私達が万引きや人をなぐる事や嘘を言うようにする事には、興味がありません。悪魔の誘惑のネライとは、私達が自分の神様との関係を試す事です。悪魔はイエス様に言いました、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と。悪魔は私達にこのように言います、「もしあなたは神の息子や娘でしたら、神様があなたの人生の荒れ野の、死んだ石を活きるパンにするかどうか、待って見ましょう。」「あなたが神の子供でしたら、何故万引きして、人をだましたりするか。神様があなたを赦すと思うか。神様があなたの事に関心を持っていると思うか。守ってくれるか。もしあなたが本当に神の子供でしたら、あなたは罪を犯さないだろう。あなたはこの世のものと悪魔を拝むので、お前は本当に神の子ではない。」言い換えますと、悪魔は私達の信仰を試しています。神様の事を疑わせます。不信仰と失望と滅びへ私達を導きます。

今日の福音書の日課はこのように終わります、「4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」後にもイエス様には、他の誘惑とテストが来ます。ゲツセマネの園で、それから受ける苦しみを分かりました。悪魔は逃げるように誘惑したでしょう。イエス様はこのように祈りました、ルカ22:42-44、

22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕

十字架上にいる時、侮辱されました。ルカ23:35-39.

23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

その時の誘惑とは逃げる事でした。信仰のテスト、神様を信頼するかどうかのテストでした。イエス様でさえも、そうでした。ですから、イエス様が私達の状態を良く分かると私達は分かります。私達の誘惑を理解します。私達が罪に落ちる時も、私達の事を理解します。イエス様が知るのは、私達に救い主が必要である事です。私達の罪を赦す、私達を悪魔の手から救い出す贖い主が必要だからです。

時々、私達クリスチャンが罪を犯す時、悲しんで、恥をおぼえる時、自分が救われているかどうかを疑って、神様が私達のような者を愛して、赦す事が出来るかどうかを疑わせます。ですから、今日の最後の言葉として、昔の偉大なる説教者が自分の教会への忠告の言葉で終わりたいと思います。それは、聖パウロのローマにあった教会の言葉です。今日の使徒書です。

第2朗読  ローマ10:8b~13(新288)

10:8「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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