2017年7月16日



福音書 マタイ 13: 3~ 9 (新p.24)

13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊にもなった。13:9 耳のある者は聞きなさい。《

今日、土について話しましょう。元気な椊物を育てる為に、花でも野菜でも、良い土が必要です。同じように、神様の御言葉にも、ゆたかな収穫を得る為に良い土が必要です。例え話で、イエス様はいろいろな土について話しました。それは神の御言葉を聞く人々の心の、様ざまな状態のようです。例え話には種を蒔く人が すべての所に種を巻いて、種が成長する希望や確信がありました。同じように、神の御言葉の種を巻く人は、いろいろの所に神のみ言葉の種を広く蒔きます。なぜならば、その御言葉を聞いて信じる心はどこにあるか、誰であるか分からないからです。

偉大なる宣教の命令は、世界のすべての所に福音を述べ伝える事です。

大きい教会の宗派の教団には、宣教の為の委員会があります。新しい教会を始める為の委員会です。良い土がある所に新しい教会を造りたいと思います。それで、1950年代と1960年代のアメリカでは、新しい団地が都会の回りにありました。そこに沢山の新しい教会を作りました。この椊えられた教会はほとんど成功し、今日、言われているメガ・チャーチ、即ち巨大な教会になった教会もありました。素晴らしいミニストリーをして、神様の御言葉は広がりました。

他方では、ある教会はその土が堅い道端のような所で、その宣教をスタートしました。宣教の働きがすごく難しい所に宣教師が送られました。共産党の国やイスラム教が政府を支配する国などはキリスト教の宣教が禁じられました。種を食べる鳥のように、人がその福音の御言葉を聞く機会が無いのは、その国の政府はその福音のメッセージを破壊するからです。又、ある所ですが、日本のように宗教の自由があっても、文化が堅いので、人が生活の変化を恐れるので、御言葉の成長のチャンスが少ないみたいです。しかし、ミッションを続けるのは、どこに良い土があるだろうと思って、イエス・キリストの福音を聞いて信じる人がいるだろうと思い、宣教を続けたからです。

それで今日、私達にも、福音の知らせの種を広く蒔くようにという、チャレンジがあります。綺麗な福音を説明する話があれば、ただの親切な言葉や行いもあります。又、その種を蒔く他の人の為に、私達はその水を蒔くバケツを持つでしょうか。私達皆は共に神様の畑に働いています。

今までの話は、他の人の心の状態についてです。しかし、この話は説教であるので、私達は自分達の心の状態を見なければなりません。今朝、ここに来られた私達の場合でしたら、その種が良い土に落ちて、信仰と愛と奉仕によって成長しています。実を結びました。

しかし、ある時、私達の心はその堅い道端のようです。罪や自分の頑固さの為に、神の御言葉を聞きたくない時があります。その時、罪を犯したいと思います。罪であると分かります。蒔いた種のように十戒が私達の上に落ちますが、私達がそれを無視します。自分が罪を起こしたと分かります。

又、私達はその石だらけの土のようです。自分の心や思いの中に、イエス様の教えがまだ根をおろしていません。私達は愛について分かりますが、隣人を愛する事や敵を愛する事は、愛の実を結ぶ事は難しいです。聖書のある教えは、分かりにくいので、受け入りにくいので、私達の現在の社会や文化に根をおろしません。聖書は、結婚や性や正義や公平などについて教えますが、私達の現代の分化は反対の事を言う時があります。私達はその分化の中に生きているので、その同じ分化によって影響を受けます。しかし、その分化は、石だらけの土のように、成長を防ぎ、石だらけで私達をころばせます。 

又は、茨の間に落ちたもののようでしょうか。 私達は雑草の中に住みたくないでしょうが、その中にいるかも知れません。学校、仕事、ヤクザ、いじめをする人、悪い友の中にいるかも知りません。私達の回りには、多くの悪、多くの罪があります。悪い影響を与えます。良い椊物よりも、雑草の方が強いみたいです。み言葉をふさぎ、首を絞めて殺します。私達の信仰が悪い影響で弱くされて、殺される可能性があります。強い雑草がすべての水を吸い込んで、良い物が枯れるように、私達の信仰も御言葉の栄養がないので、枯れる事があります。

そのような時、私達は何が出来るでしょうか。どこで力を得られるでしょうか。私達には、この世にとって水の秘密の源があります。霊的に渇く時、私達を強くして、私達を守る水があります。洗礼のバプテスマです。パプテスマはイエス・キリストの永遠の約束だからです。罪の赦しです。神様の愛の印しです。茨や雑草や石やいじめや憎しみや偏見や罪や死があっても、私達からそのバプテスマを奪う事が出来ません。洗礼は私達に、キリストの死と復活のすべての恵みを下さいます。ですから洗礼もその偉大なる宣教の命令の中にあります。

マタイ28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の吊によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。《

私達の教会の伝道のプログラムを計画します。どこで神の御言葉である種を蒔きましょうか。どのようにしましょうか。イエス様が教えるのは、私達が一つだけのやり方や一つだけの場所にしない方がいいでしょう。もし私達が千枚のトラクトを配って、誰も応答しなければ、がっかりするでしょう。大きなプログラムに小さい結果しかない時、ガッカリするでしょう。しかし、蒔かれた神の御言葉は、どこ芽を出して成長するか、私達には分かりません。イエス様御自身はいろいろの所でいろいろの人々にいろいろのやり方で、十字架の上からも福音を述べ伝えました。又、十字架上で流された血は誰でしても、信者の人生の状態が何でしても、赦しと救いを与える事が出来ます。それで、例え話の種を蒔く人と同じように、私達も楽しく種を蒔きましょう。成長を聖霊にまかせましょう。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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