だれも父の手から奪うことがない

2010年4月25日、復活祭第4主日

ヨハネ10:22−30

ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30 わたしと父とは一つである。」

イエス様は良い羊飼いであり、私達は彼の羊です。しかし皆さん、あなたがたは羊のように見ません。白いくるくるとしたウールのような毛もないし、かわいい耳もありません。しかし緑の牧場で、静かできれいな水べに導いてくださる羊飼いの後を、皆さんが喜んで従う事を想像します。同時に貴方方の中には、遊びが好きで、好奇心に満ちているので、よく迷う羊もいるでしょう。又この教会の中には、言われている「黒い羊」もいるでしょう。即ち、問題を起こす者もいるかもしれません。

個人的に言いますと、私は農家に生まれなかったので、羊との接触(せっしょく)があんまりありません。野生ではない羊は弱くて、自分を守ることが出来ない動物だそうです。野獣(やじゅう)が簡単に羊を捕まえることが出来るそうです。又、西部劇の牛泥棒のように、現在も羊を羊飼いから盗(ぬす)む人もいます。真面目な羊飼いが羊を守る事が必要です。昔からそうです。聖書の時代もそうです。ですから、詩篇23編によりますと、神様は良い羊飼いで、ご自分の羊を守って下さいます。又、ヨハネ10章によりますと、イエス様はご自分に従う人々を守って、誰も彼の手から彼らを奪う事が出来ないと言われます。「27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

私達を神様の御手から私達を奪おうと思うものが沢山あります。結局(けっきょく)、悪魔(あくま)の業(わざ)です。その働きをする為に、悪魔には多くのやり方があります。私達をイエス様から引っ張ろうと思うものが沢山あります。今日、いくつかのものをリストにしましょう。そのものは私達をイエス様の群れから、即ち、教会から私達を奪おうと思います。教会から奪われていましたら、福音を語る私達の羊飼いであるイエス様の声から奪われています。

キリストの群れは日曜日の朝ごとに集まるので、日曜日に沢山の活動があります。リストを作りしましょう: 仕事、学校の活動、家族との遊びと親戚への義務、キリスト信者ではない家族や友達の要求、町内会の活動、休みの旅行(りょこう)、スポーツ、怠慢(たいまん)、土曜日(どようび)の夜からの二日酔い、仕事がきついので疲れていること、病気や家族の人の病院での付き添い、家にくるお客さん、車の故障(こしょう)、バスに乗る為のお金が無いなど。私達の毎日の生活が忙しいので、これら全部をするために知恵(ちえ)と勇気(ゆうき)が必要でしょう。このようなものは別に悪くありませんが、決して教会に行かないように、祈る事にも聖書を読む事にも邪魔になりましたら、私達を神様から奪う、離れさせる要因(よおいん)となる可能性があります。

もしこのものが私達をイエス様から奪う事が出来なければ、悪魔にはほかのやり方もあります。私達が群れから出たいと思うように群れの中で働きます。悪魔は教会に来ます。悪魔は教会の交わりの中に入って教会員同士の間で問題を起こします。人々は小さなものについて誤解(ごかい)をし、さらに大きいものについて喧嘩(けんか)してしまいます。そのうちに、何が正しいか、どちらの方がより良いか関係(かんけい)なく、誰が勝つかという事を大事にします。コミュニケーションは喧嘩になります。そして、他の人から自分を離したいと思うので、教会から離れてしまいます。このようにして悪魔は人をイエス様から奪います。

しかし、悪魔の一番効果的な業は、罪です。罪を犯しますと、自分が愛する羊飼いに見られたくありません。罪の為に良心が非常に痛くなると、イエス様が自分を赦す事が出来ないだろうと思います。自分が偽善者になりたくないので、教会から去ってしまいます。私達の羊飼いが良くない羊飼いと考えて、イエス様を信頼しない事です。私達が悪い羊でしたら、イエス様が天国の緑の牧場に導いて下さると信じません。詩篇23編が言います、「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」と。そのむちとつえの目的とは、羊を狼から守るためです。ですから守りのしるしで、危ない時に慰めと力を与えます。神様の律法と戒めの目的とは、悪い人から私達を守る為で、どのように愛の人生を送るか教える為です。しかし、罪の為に、その鞭と杖が自分を凝(こ)らしめると恐れます。私達が神様の罰を恐れますので神様から逃げます。祈る事をやめて、教会に来なくなります。

しかし、イエス様は言われました、「27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」私達が滅びない理由とは、イエス様が十字架上で死んで3日目に甦ったからです。イエス様は死にましたが、滅びませんでした。私達の罪を赦すほど、私達を愛して下さいました。私達の罪を赦しましたので、悪魔はもう、永久的に私たちを捕えて(とら)いる事が出来ません。私達はイエス様に従っているので、悪魔の手から抜(ぬ)け出す事が出来ます。洗礼の水で私達が滑りやすいです。イエス様の杖での罰を受ける事は当然であると分かりますが、イエス様は私達の代わりにその罰を受けて、苦しみを受けて、私達のために死んで下さいました。ですから彼の苦しみは私達に慰めと力を与えます。十字架のシンボルは私達に慰めと力を与えます。

イエス様によって私達が安全であるので、私達クリスチャンの交わりも安全です。勿論、いたずら好きの羊がいつもいますが、それらも同じ神様の子羊によって赦されています。私達みながイエス様によって導かれていますので、お互いの愛と赦しによって、私達の教会の交わりが安全です。

もしかしたら、来週の日曜日の朝には仕事があるでしょうか。又、来週の日曜日には家族の遠足があるでしょうか。イエス様が私達の羊飼いであるので、私達を彼から奪うものがありません。もしかしたら、仕事場は、イエス様の証をする場所になるかもしれません。海辺は神様の恵みを見て、経験する場所かも知れません。もしかしたら死の陰の谷を歩んで、イエス様が共におられるので、わざわいを恐れないでしょう。私達が毎日、一日中教会の中にいなくても、イエス様は毎日、一日中私達と共にいます。何故ならば、彼は良い羊飼いであるのです。そして、私達がイエス様の群れに入って、彼は私達を永遠の命に導いて下さいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


Home Index Page ホーム