わたしは羊の門である。
2011年5月15日
ヨハネ10:1−16
10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 10:2 門から入る者が羊飼いである。 10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。


羊について、私は詳しく分かりません。私は田舎で育った人ではありません。Salem, Oregonの町の郊外で育ちました。しかし、親戚の南ダコタ州の農家を訪ねました。彼の所では羊を飼っていました。私は、その羊のかこいの中に入りました。羊のふあふあした毛を触りたいと思いました。しかし囲に入りますと、羊達はみな囲の反対側に移動しました。私がそこに行きますと、羊はまた皆、反対側に移動しました。しかし、親戚の人が囲に入り、声を掛けると羊たちは皆が彼の所に行きました。それはイエス様の言葉のようでした。10:3 「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」羊にとって私は知らない者でしたので、私から羊は逃げました。羊には囲があります。彼等はその中にいると安全です。狼や羊の泥棒から安全です。イエス様は言われました、「わたしは羊の門である」と。イエス様は門番です。羊を守る人です。食べさせる為に牧場まで羊たちを連れて行きます。夜、安全な囲に入れます。そこにいますと、羊には安心感があります。私達はイエス様の羊です。イエス様は私達を守って養います。

羊について、私は詳しく分かりませんが、犬でしたらもう少し分かります。私は一匹の犬を飼っています。「ハッピー」と名付けています。ある点では、今日の例え話の羊のようです。犬は私と知って、自分の名前が呼ばれたら、私の所に来ます。知らない人が来ますと、けいかいします。吠えたり、逃げたりします。しかし、その知らない人の手にはクッキーがあれば、もう、すぐ友達になります。羊飼いは朝、羊を牧場まで連れていき、夕方になりますと囲に連れて戻ります。同じように、私は毎日2回、犬を散歩に連れて行きます。いつも家まで戻ります。外においてはいけません。外の道には走る車がありますし、石を投げる子供もいます。犬にとって危ないです。羊には囲があります。以前に飼っていた犬の為に庭に犬小屋がありましたが、今の犬を家の中で飼いますので、台所の隅にケージをおいています。犬は自分の家にいると安全です。もし私が犬をお風呂に入れようと思い、犬を呼んでも、犬は自分のハウスに逃げて、私が犬を引っ張ぱり出せないようにします。自分のかごの中にいますと、犬にはその安心感があります。私は犬の安全な隠れ場を壊したくないので、無理に引っ張だしません。別の時にお風呂に入れます。

この中の皆さんは、誰も羊を飼っていないと思いますが、子供がいるでしょう。時々、子供を動物と同じように扱います。子供を守ります。子供にとって親は家の門です。門番です。子供を守る者です。食べ物を食べさせます。時々、家の安全な所から連れ出して、この世界のものによって養います。それは教育やこの世の緑の牧場の経験です。

イエス様は例え話を話しました。イエス様は羊を守る良い羊飼いです。その羊とは神様の民です。羊の囲は教会である安全な所です。イエス様は門で、彼を通して、彼の御名によって、神の民が教会に入り神の御言葉を聞きます。そして、その御言葉は彼らを悪から守ります。又、この門を通して、イエス様の御名によって、

人は教会から出て、世界の中で教会のミッションの働きをします。教会のミッションとは、福音の伝道や愛の業やキリスト信者の毎日の業です。

泥棒は羊を盗んで、狼は羊を奪い、群れを散らします。盗む人や狼とは、悪魔、偽預言者、ひどい宗教の指導者にあたります。この例え話には、イエス様はほかの人生の危険について話しません。病気や事故や天災やいじめやテロについて話していません。この危険の為に、他の安全な所や他の門番がいます。自分の家があり、夜になると玄関のカギをかけます。病院があります。又、私達を襲ってくるさまざまな狼がいます。その為に警察や自衛隊があります。そのような羊飼いの為に神様に感謝します。人生のすべての危険に、イエス様は私達の良い羊飼いです。しかし今日の例え話で、イエス様は宗教的な危険について話します。

世の中には、多くの宗教的な危険があります。あるものはただうるさい羊の泣き声です。右と左で喧嘩する者です。しかし、あるものは、私達を滅ぼす異端です。我々羊はどのようにそれを見分けるでしょうか。私達に呼び掛ける声は本当に私達の救い主の声でしょうか。

私が使っている聖書日課の本で、先週ヨハネの第2の手紙を読みました。ヨハネはこの警告を言いました、「人を惑(まど)わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」そのような人はイエス様を攻撃します。イエス様が神様であることを否定します。イエス様が体を持って生まれ、死んで、復活したとことを否定します。イエス様が犠牲になられたことを否定します。体を持っている人間である神が、私達の罪を赦し、購い、救う事を否定します。多くの宗教的なカルトの組織があります。異教の宗教があります。自由に自分の宗教を造って、キリスト教の少し、ヒンズー教の少し、哲学の少し、自分の空想の少しを選んで、自分に都合の良い教理を造ります。又、反宗教、反教会の声もあります。すべての宗教、キリスト教を含めて、これらはナンセンスだと言います。教会の群れを散らして、あなたをイエス様から奪おうと思います。

最後の晩餐で、イエス様は弟子達と話しました。マタイ26:31で言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」良い羊飼いが逮捕され、十字架につけられました。その時、弟子達皆は羊のように散らされました。しかし、イエス様が約束されたのは、御自分が戻って、彼らを再び集める事です。それは復活です。この良い羊飼いは、世の罪を取り除く子羊になりました。この良い羊は、御自分の群れを愛と赦しを持って再び集めます。

イエス様は言われました、「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」どのようにして私達がイエス様の声を聞き分けるでしょうか。それは、イエス様は私達の名を呼ぶからです。それで、私達の名は何でしょうか。私達の名とは、イエス様の御名です。洗礼を受ける時、その名前が私達に与えられています。「あなたに洗礼を施(ほどこ)す。父と子と聖霊の御名により。アーメン。」洗礼を受けて、これは私達の新しい家族の名前です。イエス様が私達の名前を呼びますので、私達は彼の御名を呼びます。それは、祈りと礼拝です。喜ぶ時にも、淋しい時にも、危険の時も、救われた時もそうです。

イエス様は言われました、「わたしは羊の門である。…. わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。…. わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」その門は永遠の命に至ります。その門は、イースターの朝のお墓の開いている門です。洗礼によって、私達はイエス様の死に入り、又、洗礼によってイエス様共に命に入ります。毎日、イエス様が私達の良い羊飼いとしていますので、私達の人生は豊かなもので安全なものです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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