本当に自由になる

2018年10月28日、宗教改革主日#501


ヨハネ8:31*36
8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。《
8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。《
8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

本当に自由になる

英語の歌ですが、「Born Free, 生まれて自由《と言う歌です。しかし、聖書が教えるのは、私達が生まれて自由ではありません。むしろ、罪の奴隷として生まれた事です。これはよく「原罪《と呼ばれています。何故ならば、私達の人間の性質の源で、私達が神様から離れているからです。すべての人間の悲しみや罪や争いの源です。しかし、イエス・キリストの福音は私達を自由にします。「自由にされました。《洗礼によって私達は罪に対して溺れ死んで、キリストに対して再び生まれて自由です。

宗教改革の福音書の日課はヨハネ8章です。ここでイエス様はこのように言われます、「8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。《しかし、宗教改革者たちは、どのような自由を考えたでしょうか。

多くの「自由運動《があります。世界のある場所は、他の国の圧迫からの自由を求めます。自由にさせなければならない刑務所の中に無罪の人がいます。このような表現があります:「女性の自由、性的な自由、チョイスの自由、経済の自由、言論の自由です、意見の自由、奴隷からの自由、麻薬と酒と悪い癖からの自由、痛みからの癒し、ぎゃくたいからの自由、自分が好きな事何でも出来る自由、などなど。《これらの事は大事な自由です。教会は隣人への愛とキリスト信者として生きて、この自由について話すべきです。しかし、501年前には、宗教改革時代には、これらの事は一番大きい問題ではありませんでした。

500年前に多くの人はローマにあった教会の圧迫から自由になりたいと思いました。しかし、ある人はやりすぎました。例えば、Ulrich Zwingli フルドリッヒ・ツヴィングリは、ローマが教えた事全部から自由になりたいと思ったみたいです、それで、聖礼典に対する考えをチェンジしました。又、King Henry VIII イギリスの王、へンリー8世は、ただ、自分の妻からの離婚の自由が欲しいと思いました。又、ある人が自由に生きる為に、新しい規定を作りました。

ルターが探した自由とは、罪からの自由です。1517年10月31に発表された95か条は、地獄や煉獄からの自由についてでした。神様の怒りからの自由が欲しいと思いました。自分が、悪魔につかまれたように感じました。自分の罪や自分の無価値を感じました。しかし、その時、聖霊は神のみ言葉の中に義の神様を表わして下さいました。即ち、神様は正しい事をする事です。神様は私達を愛して、私達を救いたいと思う事です。ですからイエス様はこの世に来られて、十字架上で私達の罪を赦す為に私達の罪を背負いました。そして、復活によって、死と地獄と罪からの自由を下さいます。それは、救いの自由です。

毎年の今の時期、どうしてルーテル教会がいつもマルチン・ルターと宗教改革の歴史を教えるでしょうか。どうしてマルチン・ルターの話が好きでしょうか。それは、それがルターについてのただの歴史の勉強ではなくて、それは私達の話でもあるからです。ルターの話がよく理解するには、私達は自分の心や自分の人生の中で、ルターと同じ事を感じるからです。正直に考えましたら、私達は自分の罪を知ります。自分が罪の奴隷であると知ります。直す事が出来ない悪い癖があります。私達の思いを悩まさせる昔の行いがあります。心をつくして神様を愛していないし、自分自身のように隣人を愛していないと分かります。自分がキリスト信者である事とは、このいらいらを知る事です。自分がキリスト信者である事とは、自分が自由ではない事を知って、自分が自分を自由にする事が出来ないと知る事です。神様の助けが必要と分かります。雷鳴の嵐の中のルターのように、私達も地獄を恐れるかもしれません。神様の赦しの為に叫びます。そして、その雷鳴の嵐の雨のように、私達は自分の洗礼を思い出します。神様は私達を赦して、私達をご自分の子供にします。神様の家族のメンバーとして、私達は今日の福音書の言葉を聞いて喜びます。

「8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。《

私達は神様の子供であるので、私達は自由です。

ルターのように、それは私達の「塔の経験《です。ある人は、それが「改心の経験《と言えるでしょうが、ルーテル教会は、それが神様の赦しと愛を持って信仰によって生きる事と言います。95か条の最初の言葉はこれです:「われわれの主であり師であるイエス・キリストは、「悔い改めよ《などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。《

キリスト教の「悔い改め《とは、自分の罪の為に後悔して、そして、その罪の赦しを受ける事です。悔い改めとは、信仰です。自分の為に十字架上で死んで下さったキリストの働きを受け入れる信仰です。

これはクリスチャンの自由です。私達の周りには、悪やこの世のさまざまの奴隷状態があります。私達の自由とは、この世のものではありません。何故ならば、私達のキリストと共にある国は、この世のものではないからです。ルターが教えたようです。私達は完全に自由にされたので、他の人との愛の絆や義務があります。それで、他の人が自由になるように助けます。それは体も魂もです。この世の圧迫からも悪魔の圧迫からも自由になるようにです。それで、私達は、私達の主イエス・キリストによる罪からの自由を述べ伝えます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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