宗教改革説教シリーズ#9
今日りんごの木を椊える

2017年11月26日、聖霊降臨後最終主日

第一コリント15:20–28
マタイ25:31–46

教会のカレンダーでは、今日は一年の最後の主日です。それで、この世の最後の事について考えます。世の終わり、キリストの再臨、死者の復活、世の裁き、永遠の命について考えます。私達の信仰を告白します。

使途信条:“われは聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。アーメン。”

ニケア信条:“死者のよみがえりと来世のいのちを待ち望む。アーメン。”

今年は宗教改革の500周年ですので、その時からルーテル教会の中での大切なテーマについて説教しています。キリストの再臨、復活、裁き、永遠の命はすべてのキリスト教会の宗派の教えです。今日は、ルーテル教会の中で、大切ではない事について話したいと思います。例えば、言われているキリストの千年王国、アドヴェントイズム、生まれ変わり(転生 [てんしょう])、煉獄などです。これらのものには二つの問題点があります。一つは、聖書の明確な言葉に基づいていない事です。二つ目は、福音からはずれて、イエス・キリストの十字架と死と復活を大事にしない事です。

キリストの言われている千年王国は、黙示録20章のはっきりしていない言葉に基づいています。黙示録の中には、多くのドラゴンと怪獣がありますので、その千年もただの例えでしょうか。未来ですか、過去でしょうか、私達の今現在でしょうか。争いの時期か、平和の時期ですか。ハルマゲドン(黙16:16)かエデンの園ですか。イエス様自身は、地上に自分の国を建てると決して話しませんでした。ポンテオ・ピラトに「私の国は、この世には属していない《と言われました(ヨハネ18:36)。又、そうでしても、もし私達に天国で永遠の命を下 されば、どうして、たったの千年の国を建てるでしょうか。意味がないようです。しかし、争いと迫害の例えでしたら、決まった時間の後に、悪魔の力が征朊される事は少し慰めを与えるでしょうが、その中で苦しんで死ぬ人にとっては、慰めを少しも与えないでしょう。それで、その千年について考えるよりも、ある三日について考えた方が良いです、即ち、聖金曜日、聖土曜日、復活の日曜日です。それが純粋な福音です。希望と慰めを与えるのは、イエス様が私達の罪を赦す為に、又私達に永遠の救いを与える為に死んで下さった事です。私達の人生は幸せでしても苦しくても、イエス様の復活は、私達の復活と永遠の命があるので、私達に希望と喜びをあたえます。

アドヴェントイズムとは、イエス様がすぐ地上に戻る事です。もしかしたら、ダニエル書などの分かりづらい箇所を勉強したら、イエス様が何年何月何日に戻るかを成功なしにこのように計算しました。しかし、イエス様がはっきり教えたのは、彼の再臨の時期が秘密である事です。イエス様の明確な言葉はマルコ13:32です、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。《それで、私達はいつも、イエス様の再臨の為に心の準備をしなければなりません。マタイ24:44、「だから、 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。《では、どのように準備しましょうか。それは、イエス・キリストを信じる事です。この信仰は、イエス様の最初に来られた事を知るからです。即ち、ベツレヘムで生まれ、十字架上で死んで、三日目に甦った事を知るからです。過去を見て未来の準備をすることです。

異教の体の生まれ変わり(転生 [てんしょう])はキリスト教会の教えではありませんが、煉獄と同じ目的です。両方は魂を清めて、涅槃(ネハン)や天国に入る為です。両方共は聖書の中にありません。煉獄が必要ないのは、私達を清めるために、イエス様は十字架上で死んで、又、聖霊は洗礼や罪の赦しによって私達を清めるからです。体の生まれ変わりについて、ヘブライ人への手紙9:27は言います、「また、人間にはただ一度死ぬ事と、その後に裁きを受ける事が定まっている。《

もう一つ:地獄はどんなに暑いでしょうか。今日の福音書で、裁き主はこのように言います、「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ《(マタイ25:41).「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである《(マタイ25:46)。地獄が恐ろしいほどで、そこに入らないように人々が救い主としてイエス様を信じるようになります。しかし、聖書の中には、天国の素晴らしい約束の方が多いです。例えば、詩篇23篇です。「主は私の羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を緑の野に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、私の魂を生き返らせてくださる。…命ある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、いつまでも、そこにとどまる。《

マルティン・ルターは「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を椊える《と多分本当に言った事がないそうです。ルターの書いた本の中にはありません。この言葉が最初に出たのは1944年です。ナツイ・ドイツに圧迫された教会の中で、希望や忍耐を持つために使いました。ルターはこのような言葉を言うでしょうか。多分。もしかしたら、自分が、明日は世の最後の日だと言った人を信頼しない証拠として木を椊えるでしょう。だって、人間はいつイエス様が戻るか分かるはずはないからです。しかし、その言葉は、世界の争いが始まると意味しましたら、ルターは人々に希望を与えたいと思うでしょう。将来に神様は木の実のように多くの祝福を与えるようにと意味します。調べてみると、私にとって好きな解釈とは、マルティンは、ガーデンイングが好きだったので、世の最後のこの日に、神様から与えられた人生を楽しむ事です。又、私達は、神様から与えられた働きを続ける事です。それで、生徒は試験の勉強を続け、大工さんは家を建て続け、お母さんは料理や子供を育て続け、すべての人々が神様を信頼して、神を愛し、隣人を愛し続ける事です。何故ならば、キリストは、今日も、明日も、永遠までも、私達と共にいるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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