同時に聖徒と罪人
“Simul Justus et Peccator”

2017年11月6日、全聖徒の主日

ローマ5:6-11

6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定めら れた時に、上信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のため に命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわ たしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わた したちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらの ことです。10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させて いただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キ リストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです 。

今年は、ルーテル宗教改革の500周年です。この宗教改革記念の時期で、その時から今もルーテル教会の中での、大切なテーマをいくつかについて話したいと思います。今までは、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、聖書のみ、そして免罪符について話しました。今日は「同時に聖徒と罪人《のテーマです。その他のテーマと同じように、とっても大切であるので、そのラテン語の吊前も覚えましょう。そのテーマの深い意味と働きの意味を表すスローガンのようになります。「同時に聖徒と罪人、“Simul Justus et Peccator。”《このテーマを今日話すのは、今日が全聖徒の日だからです。このテーマに「聖徒《と言う言葉があるからです。自分の救い主としてイエス・キリストを信じる私達は、彼の十字架上で流された血によって清められ、聖なる者になりました。ですから私達が「聖徒《と呼ばれています。しかし、同時に、私達はこの罪深い世に住んで、罪を犯す罪人です。








教会の中には、2つの週類の聖徒があります。一つは、自分の吊前の前に、「聖《と言う言葉を付ける者です。例えば、聖書の中にある聖ペテロ、聖パウロ、聖ヨハネがいます。教会の偉大なる先生、聖アウグチンや聖ジェロムがいます。信仰と愛の模範になる聖カタリナ,聖フランシコ、などです。二つ目の生徒の種類とは、一般的なキリスト信者です。十字架上で流されたキリストの血によって清められた信者です。それはあなたと私をも含みます。今日は全聖徒の日なので、死んで、今天国で主と共にいる聖徒を覚えます。これも「聖徒《と言う言葉の定義に入ります。ところで、英語の「セイント《と言う言葉は、「聖なる《を意味するラテン語から来ました。

聖書の中の「聖なる《と言う言葉は、「清い《や「罪がない《事だけではありません。「聖なる《事とは、聖なる者である神様に属している事を意味します。それで、神様の本とは、「聖書《です。神様の教会とは、「聖なる使徒たちより伝わりしキリスト教会《です。神様の民とは、聖なる民です。あなたは神様に属しているので、あなたも聖なる者、聖徒です。神様の働きをする時、あなたは聖なる事をしています、聖徒にふさわしい事です。洗礼によって、神様は私達を御自分のものにしました、御自分の聖なる吊前を私達に付けました。自分の吊前の前に、「聖《と付けると、どうのように響くでしょうか。

しかし、それなのに……..

同時に、自分が罪人である事は、分かりやすいでしょう。この世が誘惑でいっぱいで、私達はその誘惑に陥るからです。我々クリスチャンにとっては,これはいらいらさせられる事です。それで、罪の告白をする時にこのように言います、「私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いとことばと行いとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りないあわれみによりたのみます。《

聖書の中では、「罪《や「罪人《と言う言葉の意味とは、悪い事をする事だけではありません。「聖なる《事の反対です。神様に属していない事です。神様から離れましたら、私達がたとえ良い事をしても、その事が神様のものではないので、聖なる清い業ではありません。それで、聖徒とは救われた人で、罪人とは滅びに裁かれた人です。

「同時に聖徒と罪人“Simul Justus et Peccator”《と言う表現を使う時、人間の状態を表します。これは事実です。私達クリスチャンにある心の格闘です。私達が罪を犯すので、悪魔を始め、私達の罪深い心も、周りの世界も、私達が聖なる清い者ではないと教えます。全部が言うのは、私達が天国にふさわしくない事です。正直に考えますと、それは本当だと認めます。しかし、イエス・キリストを自分の救い主として信じる私達は、十字架上で流された血によって清くされ、聖なる者にされました。それは私達のただ一つの希望です。それは信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、聖書のみです。

私達ルーテル教会の会員に来る誘惑とは、“Simul Justus et Pecattor” を祝いますので、罪を真面目に考えない事です。『自分が後で赦されるので、大丈夫です。大胆に罪を犯しましょう、それで、恵みが豊かに来る為です。』罪の為に心が騒がされた人の為に、神様の赦しの約束が私達の罪より強い事が大きな慰めです。洗礼の神様の約束と聖餐式によって、イエス様との契約を再び結びますと、キリスト信者にとって、優しい開放、慰めと喜びです。しかし、罪を犯しても言い訳ではありません。

1から10までのスケールで、罪人から聖徒までのスケールで、あなたは自分をどこに置くでしょうか。50%のところでしょうか。キリスト信者の目標は、聖徒の方に近くになるように努力する事です。それは「聖化《と言います。素晴らしい目標です。しかし,それによって、私達が救われているかどうか神様は判断しません。私達は自分の働きによって救われていないからです。私達が罪人でしても、救われているのは十字架上でのイエス様の働きによるからです。聖パウロはその事をこのように書きました、ローマ5:6*11.

6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定めら れた時に、上信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のため に命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわ たしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わた したちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらの ことです。10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させて いただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キ リストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです 。

これは私達の人生のダイナミック、生き方です。私達は同時に、聖徒であり罪人であります:"Simul Justus et Peccator." 私達のクリスチャン生活を理解する為に、現実的な方法です。矛盾していますが、同時に救われていて、滅ぼされている事です。しかし、私達の人生の中で、神様の愛の力強いダイナミックです。その愛は、私達の罪を取り払って、私達の悲しみと涙をふき取って、私達の恐れを取り除いて下さいます。私達の深い罪と上安の中には、ショッキングな、驚くべきな、過激的な、素晴らしい神の愛と恵があります。

今日、私達はこの素晴らしい神の驚くべき恵みを経験した人々を覚えてお祝いします。昔の聖徒も現在の聖徒も覚えます。そして、私達はその数に加えられているので神様に感謝します!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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