あなたは天国に行きますか?

20191027
宗教改革主日

今晩、もしあなたが死にましたら、あなたは天国に行きますか?それを確信していますか? どうして神様があなたを彼の天国に入らせるでしょうか?この有名な質問は、よく伝道する人が使います。すぐ、話したいポイントに話をもって行けますし、人に神様について考えさせますし、救いとイエス・キリストを信じる必要も教えることができます。

この質問をキリスト信者に聞きますと、自分がキリストの約束を信じるので自分が天国に行くと答えます。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」マルコ16:16「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

キリスト信者ではない普通の日本人に聞きますと、すべての死んだ人が天国に行くので、自分も天国に行きますと答えるでしょう。彼らの為に、神様を信じる事は大切でもないし、必要でもありません。私の個人的な思いですが、これらの人達はキリスト教の天国に行く教えが好きなので、そのアイディアを取って、自分勝手にそれを利用します。なぜなら天国は楽しく、慰めを与える希望だからです。地獄について、仏教の地獄でしても、そこに行くのは、本当にひどい悪い人しか行かないだろうと彼等はかんがえます。

今度、ルーテル教会の人にこの質問を聞きますと、すぐ答えないで、しばらく考えてから答えるでしょう。教会学校や聖書研究会や説教で習った事を考えます。自分の罪や自分が神様に信頼しない時を考えます。自分自身が救いを得る為に十分な業が足りないと考えます。自分の価値のない事を考えます。地獄に行くのがふさわしいと分かります。そして、その時、福音を思い出します。聖パウロがローマ人への手紙3:28の事、即ち、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」又ガラテヤ人への手紙2:16、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」。そして、安心して大きな笑顔で言います。「勿論、私は天国に行きます。私はイエス様を信じて、そして、イエス様は御自分の約束を守るからです」と。

500年前の普通のキリスト信者にこの質問を聞きますと、このように答えるでしょう。「私が祈りをして教会の礼拝に行きます。私は天国に行きますが、いつ天国に着くか分かりません。なぜなれば、どのぐらい煉獄にいるか分からないからです」と。煉獄と言うものは、この世と天国の間にいる所だそうです。聖なる天国に入る事が出来るのは、完全に100%清い聖人だけです。それで、煉獄で罪が清められて、精練されて、清められた魂が天国に行けます。普通の人でしたら、その清めが何千年もかかるでしょう。煉獄の苦しみについて恐いので、煉獄にいる時間を短くする為に、人々は特別な祈りをしたり、巡礼者になったりしました。又、お金のように、自分の良い業を、もう既に死んで煉獄にいる親戚に与える事が出来ると思われていました。その愛によって、その人の煉獄の時間を減らす事が出来ると考えていました。

そして、そのごろ、テッゼルと言う修道士 が免罪符を売りにドイツにやって来ました。彼の言うのは、もしその免罪符を買いましたら、人は煉獄の苦しみを受けないで、死んだ後、真っすぐに天国に入ることが出来ると言いました。免罪符は死んだ親戚の為にも買う事が出来ました。十戒の第4の戒めを守る事が出来ます、「父母をうやまいなさい」と。死んだ後の事の心配がなければ、今生きる人生の心配をしないで楽しむ事が出来るのは、さぞかし素晴らしい方法でしょう!

しかしここには問題が3つあります。先ず、マルチン・ルターはこれが本当でしても、これがひどいと思いました。人がその免罪符を買って、ビールを飲んで酔っ払って家に帰って、妻と子供を乱暴に扱っても心配しません。何故ならば、自分の罪を赦す為にお金を払ったからです。天国に入る為にお金を払ったからです。それを証明する免罪符があるからです。

2つ目の問題は、聖書の中には煉獄や免罪符の教えがありません。

しかし、3つ目は一番ひどいです。赦しと救いを買う事は福音に反対する事です。私達の罪を赦す為に、イエス様は十字架上で死んで下さいました。私達の赦しの代金として、金と銀ではなくて、御自分の尊い聖なる血と苦しみによって払いました。もし人が自分の赦しを買う事が出来ましたら、イエス様は十字架上で死ななくても良かったです。もしキリストの死が必要でなければ、その苦しみと死が無意味で、勿体無く、命の悲劇です。私達に贈り物として与えられた物を買う事が出来ません。ローマ3:24はこのように教えます、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」救いは無償の贈り物、神様の恵みによるものです。

私達は何回もこの言葉を聞いた事があるので、もうつまらないと思うかもしれません。又、自分の救いが確かであるので、自分が、どのように人生を送ってもどの振舞いがあっても、かまわないと思うかもしれません。救われているので、神様は結局私達のすべての罪を赦すので、自由に罪を犯しても心配が要らないと思うかもしれません。神様からの大きい免罪符のようでしょう。又、ある昔のルーテル教会の人が言ったようです。「私が確かに救われるでしょう。何故ならば、けっして良い業を一つもしなかったからです。」と。しかし、聖パウロは、ローマ3:31で、このように書きました、「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」そして、どうして私達が律法を守るでしょうか。救いを得る為ですか。いいえ、そうではありません。私達が新しい命に生きるので(ローマ6:4)もう律法の奴隷ではありません。今日の福音書の日課で、ヨハネ8:31で、イエス様はこのように言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」…. 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

信仰によって生きる事は、自由に生きる事です。勿論、毎日の問題と試練と悲しみがあります。しかし、永遠の救いについて心配しなくても良いです。その自由で、毎日の人生に平和を与えます。

これはルーテルの宗教改革の中心です。即ち、赦し、自由、信仰の確信、希望、平和、と喜びです。ですから毎年宗教改革を記念してお祝いします。クリスマスと聖金曜日と復活祭とペンテコステも毎年お祝いします。そして、宗教改革記念日で、そのキリストの働きを、教会の中でも自分の人生の仲でも生かすように勧めます。改革と悔い改める事は似ています。両方によってものごとが良くなります。悔い改めが毎日必要であると同じように、改革も必要です。今日の祈りとは、その悔い改めと改革する為の自由を聖霊が私達に下さる事です。今日、私達は自由と救いをお祝いします。聖餐式で、キリストが再び御自分の約束を言われます。私達が赦されて救われている約束です。

今晩、もしあなたが死にましたら、あなたは天国に行きますか?確信していますか?そして、どうして神様があなたを彼の天国に入らせるでしょうか?

祈りましょう。全能の神、恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いで、み言葉のうちに堅く保ち、あらゆる誘惑とみ言葉の敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平安を与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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