多くの人のあがない

受難節第2主日
2009年3月8日

マルコ10:32−45

10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

多くの人のあがない

今日の福音書を理解する事が非常に大切です。ここには、イエス様は御自分の十字架上の死と3日目の復活を予言します。理解しなければならないのは、イエス様は十字架に行く時、御自分が何をするか分かっていた事です。それは、恐ろしい事故でもないし、正義の誤りでもありませんでした。イエス様は喜んで、自由に、御自分の意志で犠牲になりました。それは、私達のような罪人を救う為の神様のご計画でした。マルコの福音書の中で、今日の日課は、イエス様が御自分の死と復活を予言する3回目です。そして、毎回、弟子達はその意味がよく分かりません。

今日の福音書の日課は、イエス様がエルサレムへ上る途中(トチュウ)でした。弟子達は「驚き、恐れた」のです。イエス様が御自分の死について予言しななくても、弟子達は恐れるでしょう、何故ならば、彼らが知っていたのは、ユダヤ人達がエルサレムでイエス様を待ちまして、イエス様が彼らの司法権(シホウケン)に入りますと、イエス様を逮捕しようと思っているからです。しかし、イエス様は先頭に立って歩きました。1960年代のアメリカの市民権運動の時、マルテン・ルター・キング牧師のような指導者達を先頭にして、黒人達はアメリカの南の方の州であるアラバマ州、セルマという町に向かって行進〔こうしん〕して行きました。セルマの市長や警察はセルマに行進して来ないように警告しました。入らないように、その行列を止めると言いました。行進する人々は、セルマの橋で何が待っているか分かりました:警棒を持っている警察と斧〔おの〕のハンデルを持っている暴漢(ボウカン)でした。行進の指導者達は進みました、何故ならば、これは神様の意志だと知っていたからです。キング牧師に従っていく者達が恐れました、しかし、祈りと賛美をもって、その橋に向かって行きました。イエス様はそのようだったでしょうか。そうかも知れません。しかし、イエス様は何を彼の為に待っているかはっきりと分かりました:即ち、裏切り、逮捕、宣告、十字架上の死、そして、もう一つは、3日目の甦りです。

この時点では、弟子達はどこまでよく理解する事が出来たか知れませんが、彼らの考えの中では、イエス様がメシアの力を使って地上の神の国を建てるだろうと思った見たいです。イエス様は王様で、周りには僕や家来や国の色々の大臣がいるでしょう。ヤコブとヨハネには、そのような考えがあったみたいです、そして、彼らは野心的でした。その政府の偉い者になりたいと思ったのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左にらせてください。」とお願いしました。総理大臣や外務大臣になりたかったのです。彼らは、神の国の本当の性質が分かりません。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしがける洗礼を受けることができるか。」とイエス様は聞きました。ここでは「バプテスマ」は聖礼典の洗礼式と意味しません。「バプテスマ」と言う言葉の元々の意味とは、「洗う事」で、そして何かを経験する、何かに関わりがあると言う意味もありました。そして、イエス様が意味するのは、御自分の苦しみと死です。このバプテスマに洗う時、血を使います:イエス様の血、弟子達の血です。彼らはそのバプテスマを受ける事が出来ると言い、イエス様はその通りになると約束しました、そして、さらに、同じ苦しみの杯をも飲むと言われました。ゲツセマネの園で、イエス様はその杯がないように祈られましたが、私達の救いの為の父のご計画でしたので、十字架上で死ぬ事によってそれを飲みました。この二人の兄弟はイエス様の為に多く苦しみました。ヤコブは福音を述べ伝えたので、使徒達の中の最初の殉教者になりました。ヨハネは死ぬ前に年を取りましたが、多くの苦しみと迫害を受け、最後にパトモス島での捕困か流刑もありました。

そして、イエス様は言われました、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」もし福音書の続きが分からなければ、イエス様の右と左にいる人は誰であるか思うでしょう。「栄光をお受けになる時」誰がその偉い所にいるでしょうか。二人の他の弟子、ペテロやマタイでしょうか。旧約聖書のモーセとエリヤのような預言者はどうでしょうか。変貌の山の輝く栄光を帯びてイエス様と共にいました。又、その時の未来の教会の二人、アウグスチンやマルテン・ルターのような人はどうでしょうか。又、あなた自身がその栄光の所を受けたいと思うでしょうか。皆には栄光や誉れや権力の夢があります。あなたはイエス様を信じるでしょう、あなたの為に死んで下さったでしょう、指導者として、又教会の中の指導者としてイエス様に仕える事が出来ましたら素晴らしいでしょう。そのイエス様の左右の偉い所に立つ者は誰であると思うでしょうか。その仕事の条件を見ましょう:先ず、イエス様が飲む杯を飲む、イエス様が受けるバプテスマを受ける事です、即ち、イエス様と同じように苦しんで死ななければなりません。もう一つの条件とは、栄光を受ける時、イエス様と共にいる事です。では、イエス様が栄光を受ける時はいつでしたか。それは、メシア・救い主として、イエス様が最も素晴らしい事をする時です。皆さんが見て、神様を褒め讃える事です。即ち、イエス様の栄光を受ける時とは、十字架上にいる時です。その時、私達の為に、素ばらし救いの働きをなさいました。その時、世の罪を取り除く神の子羊でした。しかし、多くの人々は、弟子達と私達を含めている人々は、その栄光の時が違うと思います。それは、復活や再臨の時と思うでしょう。でも、スポーツ選手のために、栄光の時はいつでしょうか、記録を作る一生懸命に走ってゴールに着く時か後の受賞式の〔じゅしょうしき〕時でしょうか。兵隊の栄光の時は、勇士〔ゆうし〕として戦う時かメダルを受ける時でしょうか。イエス様の栄光の時とは、十字架上で御自分の上に世の罪の重荷を取って、その罪を赦す犠牲になった時です。そして、その時、その時点に、イエス様と共にいる者は誰でしたか。弟子達は皆逃げて、イエス様のように逮捕されて殺されないようにユダヤ人達から身を隠したのです。イエス様の右と左には、 二人の泥棒でした。その二人はその偉い地位を受けました!

では、10人の他の弟子達がヤコブとヨハネの願いを聞いた時、腹が立ちました。怒ったのは、彼らこそがその偉い所をねらったからです。その二人の兄弟がひそかにイエス様に話したら、一番よい場所を取ったと恐れたのです。皆さんはイエス様の国の中に偉い者になりたいと思いました。イエス様の時代には、偉い政府の仕事をする人には、お金や力や権力や自分の言う通りにする奴隷がいました。彼らの話す言葉には、命と死がありました。ですから、イエス様は弟子達に神の国の中の指導者についてはっきり説明しなければなりません。力や金の為に争い地上の国と違います。愛と奉仕に基づいている指導です。イエス様の愛と奉仕のようです。言われました、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人のとして自分の命をげるために来たのである。」

ですから、教会の中では、一番低く見える人は一番尊敬されています。「最後の者は最初になる」とイエス様は言われました。僕は他の人を助けて仕えます。教会の中では、神の国の中では、一番偉い者とは、一番よく教会に奉仕をする人です。即ち、イエス様の為によく働く人です。これはプロフェショネル牧師だけではなくて、すべての信者達です、イエス様に従うすべての弟子達です。この箇所のラテン語の翻訳は面白いです。日本語は言います、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」そして、「仕える」のラテン語の言葉は「ミニスタラエテ」です、この言葉から、「ミニスターとミニストリ」が来ます。ですから、牧師の言葉の代わりに使う言葉、「ミニスター」は「僕、仕える者」と意味します。すべての牧師やミニスターはこの言葉を覚えなければならないでしょう。日本の政府の一番偉い人は、総理大臣です。英語では、プライムミニスターと言います、即ち、一番ミニスター、即ち、僕の僕です。良い総理大臣がこれを分かって、国民にちゃんと仕えるはずです。

そして、一番偉い奉仕とは何でしょうか。それは、イエス様のように、「多くの人の身代金として自分の命を」事です。贖いは身代金と意味します。他の者が自由になるためにお金が払われています。お金が犠牲になります、代わりに払われます、そして、が自由になります。イエス様は私達の身代金、贖いになりました。金や銀ではなくて、御自分の尊い血と命でした。私達は死と悪魔の捕らえられた者でしたが、イエス様は私達の場所を私達の代わりに取りましたので、私達は自由にされました。そして、死んで、私達を自由にして下さったから、イエス様は死から逃げました:3日目に甦りました。こうして、私達の贖いが成功だったと私達は分かります。

イエス様に従っていく事は、時々恐ろしいかも知れません、イエス様の苦しみのバプテスマや死と悲しみの杯があるかも知れません。しかし、イエス様に従う時、彼の死にも、彼の復活にも彼の後に生きます。私達はイエス様の右と左に近くにいないでしょうが、私達はその天国の大勢の群衆の中に、イエス様の栄光の賛美を歌います!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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