“霊の火を消してはいけません”
第一テサロニケ5:19

2012年5月27日、聖霊降臨日

聖霊は霊です。言葉の定義では、霊を目で見る事が出来ません。幽霊のようです。私達は自分の目で聖霊を見なくても、自分の人生の中で聖霊の存在が分かります。私達が見る事が出来ないものを理解する為に、聖書はいろいろのイメージ、例え話のようなものを挙げます。それで私達は聖霊の力と働きを見る事が出来ます。最初のイメージは風か息です。私達は風を目で見る事が出来ませんが、そよ風 や台風の嵐を感じる事が出来ます。その霊のような風に吹き出されたホコリや雨を見る事が出来ます。私達は人の息が見えなくても、その息の温かさを感じて、息でふくらめたバルーンを見、人の息による歌声と話し声を聞く事が出来ます。イエス様は言われました、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。ペンテコステの日、聖霊は風としても息としても来られました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒2:2)。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)。

イエス様が洗礼を受けられた時、聖霊は鳩のように天から降りて来られました。又、イエス様は聖霊を生きている水のように述べました。ヨハネ7:37-39、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

ペンテコステの日、聖霊は燃える火のように現れます、「炎(ほのお)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と(使徒2:3)。この聖霊の炎を覚える為に、今日の教会の色は赤です。今日の献花も赤です。

火は良いものですが、コントロールする事が必要です。台所にガスのレンジがあれば、おいしい料理が出来ますが、気をつけなければ油に火がついて、家の火事になります。森でのキャンプファイアは楽しいですが、気をつけなければ火の粉 が山火事を起こす事が出来ます。火事の時、消火器(しょうかき)を使ったり、消防署を呼ぶ119番をダイヤルします。

聖霊の火も良いものですが、それもコントロールする事が必要です。勿論、聖霊をコントロールする事が出来ません、風もコントロールする事が出来ません。しかし、人々は聖霊をコントロールしたいと思って、2つの方法でします。まず、消火器を使う事、窓を閉める事です。言い換えますと、聖霊に抵抗(ていこう)する事です。聖霊の働きとは、私達を聖なる者にする事です。福音の知らせの火は私達に信仰をもたらします。イエス・キリストの死と復活によって私達の罪が赦されていると信じる信仰です。バプテスマによって、私達が神様と共にある人生、聖なる人生を送るように、聖霊は私達を毎日清め続けます。それで、私達が計画的に、罪を犯そうと思う時、それは、神様の御言葉の風を聞く事が出来ないように窓を閉める事のようです。自分の人生の中から神様を追い出そうと思いましたら、神様が私達の近くにいないように消火器を使う事のようです。今朝時間がないので、聖霊が私達の人生に入らないようにする、他の人の業を話しませんが、それは偽宗教(にせ しゅうきょう)、カルト、圧迫する政府、厳しい親などの、神様に対して恐怖(きょうふ)を持っている人です。それは悪魔の働きです。

聖霊をコントロールする方法のもう一つとは、火事にカソリンをかける事のようです。それをするのは、いつも悪くありません。伝道をする熱心なクリスチャンの中で見えます、又、言われているペンテコステ派の教会、カリズマ的な信者の中でも見えます。礼拝の時に自分の体の動きをコントロールする事が出来ない、大声で突然に叫んだりすることなどです。私自身はただの古臭い、つまらないルーテル教会の人でしょうか。それらは私の好きな礼拝の持ち方ではない事だけでしょうか。しかし、神学的に、腹が立つのは、私を怒らせるのは、イゲンを話せなければ救われていないと言う人の事です。聖書の中にあるので、勿論イゲンを語る事は大丈夫ですが、しかし救いの為に、いげんで話すことは必要ではありません。マルコ16:16が言う通りです:「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

聖霊の働きとは信仰を創造する事です。聖霊のギフトは、信仰を強くする為にも、福音を述べ伝える為です。もし誰かがあなたに「あなたには聖霊がありますか」と聞きましたら、多分、「あなたはイゲンを語りますか」と意味します。あなたはイゲンを語っても語らなくても、別の聖霊のギフトがあってもなくても、古臭いつまらないルーテル派のクリスチャンでしても、もしあなたがイエス・キリストを自分の救い主として信じましたら、大胆に答えられます。「はい、私には聖霊があります」と。

聖パウロは第一テサロニケの信者への手紙5章19節で書きました、「霊の火を消していけません。」今日はペンテコステです。その火を燃やし続けましょう。燃料を加えましょう。その燃料とは、信仰、神の御言葉、聖礼典、信者の交わりです。その交わりが大切であるのは、教会の信者達の集まりの中で見付けるのは、愛、平和、喜びを始め、お互いの赦しと恵みと聖霊の賜物と働きです。

聖霊をコントロールしないで下さい。反対に、聖霊があなたをコントロールするように許して下さい。自分の人生をコントロールする事が出来ないと思う時、聖霊の導きの為に祈りましょう。聖霊が私達の人生をコントロールする時、人生のコントロールを失いません。争い、病気、喧嘩がある時でさえも、聖霊が私達と共にいると分かります。私達は愛されています、赦されています、救われています、独りぼっちではありません。ですから、聖霊は「霊」である事が素晴らしいです。霊として、神様はすべての物質的な壁を乗り越えます。神様は、火と水と風のような物に限られていません。この力がイエス様の死と復活に表わされています。私達の毎日の信仰生活の中に表わされています。これこそは聖霊の力です。この力と愛は、同じように、私達の教会と家族と人間関係の為にです。

このペンテコステの喜びと愛と平和を消してはいけません、いや、消す事が出来ません!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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