十字架と復活の意味:罪の赦し

2008年3月30日、復活最後の主日
ヨハネ20:19―31

キリストが甦りました!
本当に甦りました!

今日、復活祭のお祝いを続けます。先週、「イースターの喜び」について話しました。今日は、イエス様の死と復活の目的と結果を見ましょう。甦られたイエス様が復活した日の夜、弟子達と会った時、挨拶して、ご自分の仕事を続けるように命じられました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:22-23)。私達の罪を赦す為にイエス様が十字架上で死んで下さいまして、そして、復活したので、その業wazaが成功であったと証しします。今度、弟子達はその仕事を続けます。そして彼らを遣わしました。イエス様は十字架のメッセージを宣べ伝える事が出来るように、聖霊を下さいます。それで、十字架の祝福を他の人にも持って行く事が出来ます。言い換えますと、イエス・キリストによる罪の赦しを宣べ伝える事です。それを宣べ伝えますと、イエス様を自分の救い主として信じる人々の罪が赦されます。

イエス・キリストによる罪の赦しとは、キリスト教会だけにある教えです。ほかの宗教や哲学などは、愛、親切、慈善、平和などを話します。清めや御払いなどにつても話します。赦しについて話しても、それは、行いによって、又、儀式によるものです。キリスト教会だけが、赦しが神様の純粋な贈り物であると言います。「恵み」や「憐れみ」とも言います。勿論、キリスト教は愛と平和などについても話します。しかし、すべてがキリストの十字架に結ばれています。

私達の信仰のしるしは何ですか。十字架です。十字架上で何が起こったでしょうか。それは、イエス様が死んで下さった事です。どうして死んだでしょうか。それは、私達の罪を赦す為でした。 十字架は、キリスト教のメッセージに意味も力も与えます。一人一人のキリスト信者の人生にも意味と力を与えます。私達がたの人を赦す事が出来るほど、私達が完全に赦されました。それは、聖霊の働きです。聖霊は、私達の罪を赦す事によって私達を聖なる人にします。そして、この聖なる状態によって、私達はたの人を赦します。その最初の結果とは愛です。

このように説明しましょう。罪とは何ですか。罪は、私達が悪い事をすることですが、それだけではありません。罪とは、私達と神様の間に大きなへだたりがあることです。しかし、イエス様をこの世に遣わして下さった事によって、橋を作る事のように、神様はそのへだたりをなくしました。それで、今私達は神様と近くなりました。私達の心には、他の人にたいするにくしみや不信頼感がある時、そこには壁があるようです。他の人を赦すと、その壁を壊す事のようです。それで、その人と近くなる事が出来ます。近くなると、その人を愛する事が出来ます。近くなると、親切に助けることが出来ます。又、罪は死のようだと言えます、お墓のようです。イエス様がお墓から復活した時、そのお墓が破yabuられました。罪が破られました。罪が赦されました。今は、罪も死も悪魔も、私達を神様から遠く離す事が出来ません。それは、聖霊のメッセージです。イエス・キリストによって私達は聖なる者になりました。

その最初のイースターの日曜日のよる、イエス様は赦しについて話して下さいました。次の日曜日の夜、イエス様はトマスを赦しました。トマスは、イエス様の復活を信じませんでした。これは、疑いや不信仰の罪です。不信仰が罪であるのは、私達と神様との間に壁を作るからです。 もしイエス様がその壁を壊kowaしても、疑いますので、壁がまだあると思い、そのように行動するからです。不信仰が罪である事は、神様の愛と赦しを受け入れようと思わないからです。トマスは、自分の罪がイエス様の死によって赦されている事を信じようと思いませんでした。イエス様は、その疑いの壁を赦しによって壊さなければなりませんでした。イエス様はトマスを切り捨てて、しまいませんでした。代えって、愛を受け入れる気持ちを持ってトマスに来られました。言われました。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」そして、トマスは信仰深い言葉で答えました。この言葉によって、自分の罪と自分の死から、イエス様を自分の救い主として受け入れました。トマスは言いました、「わたしの主、わたしの神よ。」信じる事がどんなに難しいか、イエス様は良く分かります。弟子であっても、トマスにとっては難しかったです。イエス様を否定したペテロにとっても難しかったです。私達は、自分の目で甦られた主を見ルことができないので、自分の手で彼に触る事が出来ないので、信じる事は難しいです。ですから、イエス様は私達に特別な祝福を下さいます、言われました、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

主を見、主に触る事があれば、それは聖餐式です。でも、その時も、トマスのように、その意味を理解する為に、聖霊が必要です。聖餐式の意味とは、イエス様が私達の罪を赦す為に死んで復活した事です。これは新しい契約です。これは、私達のイエス・キリストとの新しい人生の生き方です。

使徒達は世に遣わされました。聖霊の力によって十字架を宣べ伝えました。罪の赦しを宣べ伝えました。それをする事によって、同時に、神様の愛、平和、恵み、憐れみなどを宣べ伝えました。

今日はイースターの次の日曜日です。私達は弟子達のように集まりました。私達の中に、今日、一人か二人の疑い深いトマスのような人がいるかも知れません。しかし、今日、聖霊もいます。聖霊は赦しを持って来られます。聖霊は信仰を持って来られます。私達はイエス様の手と脇腹を触る事が出来ないでしょうが、聖霊は私達の心に触れます。私達の疑いや不信仰が赦されています。ですから、私達のすべての罪が赦されています。それで、トマスと共に私達も言います、「わたしの主、わたしの神よ。」

アーメン。

キリストが甦りました!
本当に甦りました!

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト