詩篇

2012年7月15日

今年は英語の礼拝で、第一の聖書日課として、創世記から始まって、毎週次から次へ順番に旧約聖書の本から読んでいます。今日は詩篇になりました。今日、詩篇について考えましょう。私達の目的とは、詩篇の中で福音を見つける事です。それで、先ずヘブライ語の詩の形を見ましょう。その後は詩篇の読み方を見ましょう。

先ず題名を見ましょう。ギリシャ語の題名は「Psalmoi」で、「琴を鳴らす」と意味します。即ちこの詩篇は歌うべき賛美歌です。

ヘブライ語の詩は日本の詩や英語の詩と違います。英語の詩でしたら、大切なのは rhythm and rhyme リズムと押韻(おういん)・脚韻(きゃくいん)です。例えば、

Mary had a little lamb, its fleece was white as snow
And everywhere that Mary went the lamb was sure to go.

“Snow”と “go” の言葉の最後の発音が同じです。リズムやビートも大切です。現代の音楽には「ラップ」と言う音楽が、流行っています。私はそのrhythm and rhyme が楽しいと思います。

日本語の詩の中にrhythm and rhyme がありません。大切なのは、音節の数です。俳句は5-7-5で、短歌は5-7-5-7-7-です。しかし、俳句には大切なものの一つは自然や季節です。この短い詩で、目の前に一つの情景シーンを描く事です。

古池や 蛙飛び込む 水の音
Furu ike ya / kawazu tobikomu / mizu no oto
An ancient pond / a frog jumps in / the splash of water
[松尾 芭蕉 (Matsuo Bashō) 1686]

ヘブライ語の詩にもrhythm and rhymeがありません。しかし、言われている思想のリズムがあります。即ち、詩の一行目のテーマが2行目に繰り返します。しかし、違う言葉を使います。例えば、

19:105 あなたの御言葉は、 わたしの道の光/
わたしの歩みを照らす灯。
14:4  山々は雄羊のように/丘は群れの羊のように踊った。
9:9   御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。
46:8  万軍の主は わたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

この詩のテクニックは、詩篇だけではありません。預言者も使います。預言者達はよく詩を書きます。多くの預言は政治的、道徳的な非難でした。アモスとオバデヤ達が本当にその預言の詩を歌ったかどうか分かりませんが、歌ったかもしれません。何故ならば、英語には多くの戦争反対の歌と社会を非難する歌が、有名なフォークソングになりました。例えば、“Where Have All the Flowers Gone?” と“We Shall Overcome.” 預言者イザヤ書には、この句があります。「3:8 エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。」エルサレムはユダの国の首都です。同じように、東京は日本の国の首都です。又、「よろめき」と「倒れた」は同じようなものです。「イザヤ書46:3 私に聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。」神様はヤコブと言う人の名前をイスラエルに変えました。それで、ヤコブとイスラエルとは同じです。同じように、シオンはエルサレムです。このようなものが沢山あります。それで、詩篇と預言書を読むのが面白くなります。

次に、詩篇の読み方、どのように詩篇を祈るかについて話しましょう。一つの詩篇を完全に理解する為に、完全に祈る為に、その一つの詩篇を3回読めばいいです。先ず、最初にこの詩篇を書く人の目から見て、次にイエス様の目から見て、最後に自分の目から読みます。

例えば詩篇23篇です。ダビデ王は若い時羊飼いでした。それで、羊の事がよく分かりました。どのように羊を育てたり、守ったりするかが分かりました。イエス様は、御自分が良い羊飼いであると言われました。羊を守る為にご自分の命を捨てる羊飼いです。そして最後に、私達は神様の群れの羊達です。皆さんは既に23篇についての説教を聞いた事があると思いますので、今日は細かく話しません。

詩篇22編もダビデ王によって書かれたものです。ダビデが王になる前に、サウル王はダビデを殺そうと思ったので、ダビデは荒れ野に身を隠しました。後に王になった時、自分の息子アブサロムの反逆(はんぎゃく)の為に、エルサレムから荒れ野に逃げて行きました。詩篇22編で、ダビデは自分の心の淋しさと苦しみを表します。「22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。」しかし、この歌の最後に、ダビデの信仰と信頼が表されています。

22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/
集会の中であなたを賛美します。
22:24 主を畏れる人々よ、 主を賛美せよ。
ヤコブの子孫は皆、 主に栄光を帰せよ。
イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを決して侮(あなど)らず、さげすまれません。
御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。

十字架上にいる時、イエス様はこの詩篇を歌いました。又、祈りました。福音書の中には、最初の言葉だけがあります。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」十字架につけられた時、この詩篇の中の多くの言葉が成就されました。

22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/
唇(くちびる)を突(つ)き出し、   頭を振(ふ)る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」



22:16 口は渇いて素焼(すや)きのかけらとなり/舌は上顎(じょうがく)にはり付く。
あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。
22:17 犬どもが 私を取り囲み/
さいなむ者が群がって私を囲み/
獅子(しし)のようにわたしの手足を砕(くだ)く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め
22:19 わたしの着物を分け/衣(ころも)を取ろうとしてくじを引く。

それで、この詩篇はキリストの十字架上の苦しみを予言します。同時に、キリストを信頼する人々の為の神様の救いをも予言します。

私達クリスチャンは、ダビデと同じように、神様が自分を見捨ててしまったと感じる時があります。自分の人生の苦しみを感じる時、ダビデやキリストの悲しみをよく理解する事が出来ます。自分の問題にふさわしい詩の言葉を変えたいと思うかも知りませんが、どうしてダビデがこのように書きましたか理解する事が出来ます。ダビデとキリストは、自分の苦しみの中でも、神様の救いを信頼してそれを待ちました。そして、神様は本当に彼らを救い出しました。私達はこの詩篇を祈る時、その同じ力を受けます。何故ならば、福音の救いを見るからです。この詩篇はキリスト信者達に特に愛されています。何故ならば、どれだけキリストが私達を愛するか表すからです。ものすごい苦しみを受ける程、私達を愛して下さいました。この苦しみの中でキリストの愛を見ます。とっても悲(かな)しい賛美歌で、読みますと私達は悲しみます。しかし同時に、希望を与える力があります。それは、私達に十字架上のキリストの愛を見るからです。

悲しい詩篇も、楽しい詩篇もあります。お祝いする時に歌うものもあります。キリストにある救いをお祝いします。それで、最後の詩篇、150編で終わりましょう。


150:1 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦(とりで)で神を賛美せよ。
150:2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。
大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
150:3 角笛(つのぶえ)を吹いて神を賛美せよ。琴(こと)と竪琴(たてごと)を奏(かな)でて神を賛美せよ。
150:4 太鼓(たいこ)に合わせて踊りながら神を賛美せよ。
弦(げん)をかき鳴らし笛(ふえ)を吹(ふ)いて神を賛美せよ。
150:5 シンバルを鳴(な)らし神を賛美せよ。
シンバルを響(ひび)かせて神を賛美せよ。
150:6 息(いき)あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。   

主をほめたたえよ。ハレルヤ。アーメン。

ハレルヤ。 הַלְלוּ-יָהּ 

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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