放蕩愛

2010年3月14日、受難節第4C主日
ルカ15:11−32

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

今日の福音書の例え話の伝統的な名前は「放蕩息子」です。辞書を調べますと、「放蕩」とは、物を無駄に使い、贅沢(ぜいたく)すぎる生き方です。例え話の中で「放蕩」と言う言葉は、その男の子の生活ぶりを表します。「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」のです。実は、この男の子は、遺産を受ける前に、家を出る前から放蕩息子でした。一番尊い物を無駄に扱いました。即ち、お父さんの愛です。その愛がどんなに尊いか分かりませんでした。その愛を捨てて、お金にしてもらいました。そして、新しい所では、その現金が新しい愛や友達を買う事が出来ないと分かってきました。厳しい遊びでそのお金を全部使ってしましました。(どのように使ったか、想像して下さい。現代の若い人でも、突然に沢山のお金をもらうと、どのように使うでしょうか。同じでしょう。)現金を使ってしまって、遺産を全部使い尽すと、ホームレスになって、お腹が空いていたので、仕事を見つけました。しかし、その仕事は、ユダヤ人の為には多分一番いやしい仕事でしょう。何故ならば、ユダヤ教の中では、豚が最も宗教的に汚れている動物です。男の子には、もう何もない状態になった時、無駄に使う余裕(よゆう)もなくなりました。もう放蕩的な生き方が出来ませんでした。その時、「彼は我に返って」きました。ファンタシーが終わって、本当の事が分かってきました。それで家に帰ろうと思いました。しかし息子としてではなくて、雇い人として帰ろうと思いました。

今度はお父さんの出番です。彼も放蕩的な人でした。愛を無駄に使い、愛に関して、贅沢過ぎる生き方でした。最初から息子を愛しました。息子が『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言ったとき、お父さんの心が痛んだでしょう。その財産とは遺産です。人が死んだ後に分ける物です。ですから、その息子はお父さんとの縁を切りたいと思いました。お父さんがもう死んでしまったようです。大きなショックでした。しかし、このお父さんの愛は、子供が欲しいい物を与えるほど大きいでした。そうしなければ、その子は決してお父さんの愛を知らないでしょうし、いつまでもお父さんを憎むでしょう。このような愛があったので、その息子を行かせました。そして、その同じ愛は息子の帰りを毎日待ち望みました。ただ待つ事ではなくて、いつも道路の方を見て一番遠い地平線の方を眺めて、息子が来るかどうか捜しました。それは20節の雰囲気だと思います。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」それは愛でした。息子の罪の告白や懺悔(ざんげ)を聞きたくありませんでした。もう既に息子を赦していたからです。息子の為の愛は、大きな歓迎会(かんげいかい)になりました。「『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」そのような愛は、放蕩的なお父さんのようです!

そして、お兄さんがいます。よく働いている真面目な子です。何も無駄に使いません。しかしお父さんの愛を無駄に使いました。しかし今度は、お父さんの財産を放蕩に使ってしまった弟(おとうと)に対して、無駄に愛を使いたくありませんでした。正しくない、公平ではないと思いました。お兄さんは、兄弟の放蕩的な生活について話しましたが、自分自身の為に表されたお父さんの愛を無駄に扱いました。その愛を受け入れる事が出来ませんでした。ですから、お父さんが彼の所に行って話しましたが、かれはお父さんの愛を彼の弟と分かち合う事が出来ませんでした。お父さんは、これからは何も無駄に使わないように言いました。ただ愛と喜びを贅沢に表すのだと。

愛を無駄に使う事が出来ます。しかし、愛が無限ですので、無駄にしても、無くなる事が出来ません。無駄に使ってもかまいません。私達の愛を受ける価値のない人がいるでしょう。私達の愛を返さない人がいるでしょう。自分が愛されている事を知らない人もいるでしょう。それでもオーケーです。神様はそのようにしてこの世を愛するからです。人が神様の愛の為に感謝しなくても、神様は愛し続けます。神様は最初の放蕩のお父さんで、イエス様は最初の放蕩息子でした。イエス様は遺産を持って、即ち神の国の遺産を持って、お父さんの所を出て、この地上で、それを受けるだれにでも与えました。愛を下さいます。永遠の命の遺産を与えます。逮捕された時、困った時に、例え話と同じように、友達がイエス様から逃げました。そして、イエス様は最も卑しい仕事をしました。即ち、十字架を背負って、世の罪をご自分の上に取りました。十字架上で死んで、3日目に甦りました。お父さんの所に帰りましたし、彼を信じる誠の兄弟姉妹の所にも帰りました。聖餐式はイースターの祝会です。お父さんが言ったようです。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」本当に、当たり前です!

今日、私達が愛について、放蕩のように使いましょう。贅沢に、気前が良くして人に愛を与えましょう。いや、無駄にさえ与えましょう。例え話のお父さんはそのやり方を教えます。私達の天のお父さんも、イエス様も、放蕩のように愛する方法を教えます。イエス様が多くの人々、誰でも完全に愛したので、その為に、ある人はイエス様を侮辱(ぶじょく)しました。いや、その為に、イエス様を十字架上で殺しました。しかし愛を無駄に扱う事が出来ません。何故ならば、神様には無限の愛があり、それをいつまでも私達に下さるからです。もし愛をもっと欲しいと思いましたら、神様に頼めば良いです。このようにして、神様は私達に神の国の遺産をもう既に下さいました。

どのようにして、愛を放蕩に贅沢に配りましょうか。あなたはどこから始めるでしょうか。自分の家庭から、家族の為に、連れ合いの為に、友達の為に、教会の為に、近所の為に、会社の為に、クラスメイトの為に、社会の為に、国の為に、困っている人の為に、ミッションの為に、チャーリティーのために.しかし先ず神様を愛しましょう。限りなく、礼拝と祈りと賛美と信仰告白を持って神様を愛しましょう!

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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