絶えまない祈り

2022年10月16日



ルカ18:1*8
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』《
18:6 それから、主は言われた。「この上正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。《

今日の例え話の中には2人の人物がいます。裁判官とやもめです。その裁判官は、明らかにユダヤ人の裁判官ではありません。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない《と自分で言うからです。又、普通のユダヤ人同士の律法の問題は、長老達の前に持って行って、公の裁判に全然持って行きませんでした。ですから、そのやもめの訴えは、ユダヤ人同士に対するユダヤの律法に関するものではなかったでしょう。その裁判官はヘロデ王や、 また ローマ人に任命された人でしょう。そのような裁判官達の評判は非常に悪くて、ひどいものでした。裁判の順番を決める為には、お金や権力がなければ、訴えの解決のための希望がありませんでした。「肉の一皿《のために正義を誤用するそうです。[そして、その裁判官の肩書にしゃれがありました。ヘブライ語で、その本当の肩書の発音は、Dayyaneh Gezeroth ダッヤネー・ゲゼローサで、即ち「禁止や罰の裁判官《です。しかし一般的に呼ばれたのは、Dayyaneh Gezeloth ダッヤネー・ゲゼローサで、即ち「泥棒の裁判官《です。発音は英語の L と R だけ違うので、日本語では同じ発音になってしまいます!]

やもめは、すべての貧しくて力がない人のしるしです。(イザヤ1:17参考。)普通に、やもめ達は貧しくて、助ける人がいませんでした。ですから、わいろを払うお金がないので、そのような裁判官に訴えを聞いてもらって、相手を裁いてもらう希望がありませんでした。しかし一つの武器がありました。即ち忍耐です。裁判官が言います:「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私をさんざんな目に遭わすにちがいない。《日本語の聖書の翻訳は大丈夫ですが、ギリシャ語の表現はもっと強いです。「さんざんな目に遭わす《の言葉は「目のまわりの黒い痣を与える《ことです。(upwpiazh me) ただの誇張した表現かも知りません。例えば、「彼女がうるさいので頭が痛い《です。又、裁判官は本当の暴力を恐れたかも知れません。例えば、裁判所から出る時、彼女が彼を待っていて、彼を攻撃するかも知りません。神様よりも彼女の方が恐ろしいと思います!

イエス様が言われるのは、神様はその裁判官のようであるわけではなく、その反対である事です。教えたいと思うのは、このような裁判官がそのやもめの願いに答えましたら、神様は尚更に、弟子達や神様が大事にするやもめや無力な人々の願いをかなえることです。最初の節はこの例え話の意味を説明します。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない事を教えるために、弟子達に譬えを話された《と。そして、最後にイエス様は質問しました、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人達のために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれる事があろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。《

忍耐の問題です。この忍耐とは、ただ長いあいだ待つ事よりも、堪え忍ぶ事で、問題に直面する時にあきらめない事です。「がんばる!《、「ファイト!《のようです。イエス様はこの忍耐を「信仰《と呼びます。弟子達に聞きました、 「しかし、人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。《その裁判官と同じように、私達の忍耐は限られています。  私達の信仰も限られているでしょうか。その限度や制限はいつ くる でしょうか。例えば、私達の祈りに答えるのに、神様は遅いと感じますともう忍耐する事はもう出来ないでしょうか。うるさい人やいじめる人が私達を傷付ける時や「目を打つ時《のようでしたら、もう忍耐が出来ないでしょうか。忍耐はどのぐらいあるでしょうか。信仰はいつまで耐えることができるでしょうか。自分をいじめる人に仕返しをするまで、忍耐をもってどのぐらい待つでしょうか。この世の上正義に対する忍耐の限度に成りますと、どうなるでしょうか、上正義を直すために働くでしょうか、それとも、負けてしまって、自分も上正義な生き方に成るでしょうか。信仰を失うまで、どのぐらい神様に祈って待つでしょうか。

人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。私達人間のなさけのない、忍耐のない心を見たら、見出さないでしょう。私達の内に、そのやもめのように、信仰をもって絶えず祈る人が少ないと思います。何故ならば、私達があきらめるからです。私達の自己中心的な要求で、私達だけがいつも正しいと思います。自分の要求しか正しいと思いません。問題は、神様が私達の祈りにすぐ答えない訳ではなくて、すぐ答えますが、私達はその答えが好きではないので、自分の欲しいものの為に祈り続けるからでしょう。失望したら、ガッカリしたら、もういいと思ってあきらめるでしょう。そして神様の事をあきらめましたら、私達の人生の戦いの中に神様がいなくなり、もう希望がありません。

まず私達はそのやもめのようです。自分は力がないと思うから神様に祈ります。自分の心の中の頑張る「やもめ《がつかれてしまう時、即ち、神様に祈る無力な自分が疲れる時、自分のために絶えず祈ってくださる新しい「やもめ《が必要です。イエス様はそのがんばるやもめのように、私達のために祈って下さいます。上正義な裁判で、イエス様が十字架上に付けられました。十字架上で見捨てられていますが、私達の正義のために絶えず祈って下さいます。イエス様に対する裁きは、上正義であるかどうか論じ合う事が出来ます。自分が神様の子であると言われるので、ユダヤ人達は彼を死刑に宣告しました。しかし、本当に神の子でした。ピラトはイエス様がユダヤ人の王であるので宣告しました。しかし、実はユダヤ人の王でした。彼らはイエス様を十字架につけましたが、その日の本当の裁判官は父なる神様でした。イエス様の上に、世の罪がありました。それで神様は彼を罪人として宣告しました。そして、父なる神様は正しい宣告を行われました。これは誠の正義でした。正義が行われているのは、御自分の上に私達の罪を取る時、彼はその正義の与える罰を御自分の上に受けて下さいます。私達の代わりに死にます。やもめのように私達のために訴え、そして、正しい裁判官である父なる神様はその願いを聞き入れます。私達の敵である死と悪魔を裁きます。私達は生きる事が出来ます。

人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。はい、見つけます。何故ならば、私達は彼の再臨を待ち望むからです。「御国を来たらせたまえ《と祈り、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ《と祈るからです。

祈りの中で神様に呼びかける時、私達は上正な裁判官に祈りません。(神様は賄賂、即ち、私達の献金、良い業、誓約などをうけません。)私達は私達を愛する父に祈ります。(神様は最も良いものを下さいます、特に聖霊を下さいます。)自分の祈りの確信とは、その絶えず祈るやもめのように、イエス様は私達の為に絶えず祈って下さるからです。私達が絶えず祈り続けるのは、イエス様が絶えず私達を愛するからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


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