生きた水

2008年5月11日
ペンテコステ、聖霊降臨日

ヨハネ7:37−39
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

本当にのどが渇いていた日のことを覚えていますか。その時、水や他の飲み物は本当においしかったでしょう。本当に霊的に渇いていた時を覚えますか。その時、祈りや聖書のみことばや聖餐式や福音は本当においしかったでしょう。

沖縄の暑い日に太陽の下にしばらく立つと、水が必要と感じます。水を飲みたいと思います。その渇きを癒す為に、せんべいやポテトチップスを食べるでしょうか。いいえ。更に渇くでしょう。がまんして、何も飲まないようにしようと思いましたら、病気になって、日射病(にっしやびょう)や筋肉痛になります。霊的な渇きも同じです。長い間教会から離れましたら――長いと言ったら、それは、人によってちがいますが、ある人は2週間、ある人は2年間ですが――イエス様のもとに戻らなければなりません。その時、他のものはその渇きを癒しません。自然との一致、ヨガ、ジョギング、self-help などの本などは役に立ちません。それらはなお更、私達の心を乾かします。がまんしたら、霊的な病気のようになります:即ち、誘惑に落ちやすい、救いや永遠の命から離れます。

イエス様は言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。言い換えますと、霊的な渇きを癒す為に、イエス様は聖霊を送ります。聖霊は私達の心の中にいます。聖霊は、蛇口(じゃぐち)のように、完全に開かれている蛇口のように、私達の心も人生を生きた水で満たされます。信仰の生きている水です。信仰の喜びです。信仰の平和です。

イエス様は私達の霊的な渇きを知ります。十字架上で、「私は渇く」と言われました。暑い日の喉の渇きだけではありませんでした。イエス様の上に置かれたのは、罪のひきおこす渇きです。十字架上でイエス様が感じたのは、私達の罪の渇き、私達の痛み、私達の孤独(こどく)、私達の恐れ、失望、失敗、弱さなど。イエス様は私達が必要とする事を知ります。私達の体の必要も、魂や心の必要なものも知ります。ご自分の上にそれらを取って、十字架上で死にました。3日目に、癒しと力を持って甦りました。その癒しと力を私達に下さいます。永遠の命を下さいます。聖霊を下さいます。

聖霊は生きた水のようです、命の水です。このように説明しましょう:成長する為に、種には、水が必要です。渇いている種は死んでいるみたいです。何年もそのままでしたら、何も起こりません。渇いている土でいっぱいの鉢に入れても、良い肥料を与えても、水を加えなければ、何も起こりません。しかし、水を与えますと、芽が出ます。根が出ます。成長して、ついには実を結びます。人間も同じです。聖霊がこられなければ、人は霊的に死んでいます。例え、聖書の本でいっぱいの部屋の中に、子供を入れても、聖霊の働きがなければ、何も起こりません。聖霊はその子供にその聖書の物語を読んでもらわなければなりません。種の場合には、収穫まで、数週間や数ヶ月かかります。人の場合には、何週間、何ヶ月、何年間もかかって、ついに、信仰や告白の実が結びます。しかし、聖霊は絶えず働きます。そして、心の中で信仰を起すように聖霊が働きますので、その人は聖なる者、救われた者になります。

今日、信仰告白する時、それは、私達の心の中で、聖霊は川のようになった事をお祝いします。

ペンテコステの日には、聖霊は弟子達の上に来られました。ペンテコステの日に、聖霊は水のように来ないで、激hageしい風や炎の形で来られました。又、弟子達が語った神様の御言葉を聞いた人々の心の中で、その風、その火の熱は、燃えました。自分の罪に定められていたひとは、悔い改めました。信仰がありましたので、その燃えていた心に、洗礼の聖霊の冷たい水が与えられました。

聖霊はこのように働きます。燃える火と水です。律法と福音です。警告や避難所です。私達の心や魂は赦しと愛の御言葉の生きた水の為に渇く時、聖霊はその御言葉を語ります。聖書の言葉を通して、牧師や教会学校の先生の言葉を通して、親達や友達の言葉を通して、聖霊は私達に語ります。愛の言葉、赦し、受け入れる事の言葉です。救いへの招待の言葉です。イエス様は言われました、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエス様は私達にも、再びいわれます、「私に来なさい」と。そして私達は答えます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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