平和????

2016年8月14日



第2朗読 ヘブライ12: 1~13(新416)
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

福 音 書 ルカ12:49~53(新133)
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

主の平和があなたにありますように。アーメン。

キリスト教会の大きな教えは平和です。クリスマスの天使が歌いました、「天には栄光、地には平和」と。この世に来られる神の子・キリストの良い知らせです。山上の説教の中でイエス様は言われました。「平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる」と。甦られた主は弟子達に現れて言われました。「あなたがたに平和があるように・シャローム」と。聖パウロは、幾つかの手紙をこのように始めました。「私達の父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。私達の教会の式文は言います。「主の平和が共にあるように。・また、あなたと共に。」「平和」や「シャローム」は綺麗な挨拶です。キリスト信者達は、世界平和の為に祈ったり働いたりします。あるキリスト教会は、活動的に色々な形の平和の為に働きます:社会的、政治的、経済的、自然環境的、精神的、健康的、等。平和は愛から来ますので、愛が増すと平和が増えます。それで、愛も更に増します。皆が平和を求めます。世界にも、自分の地域にも、自分の家族にも、自分の幸せな心にも、自分の健康的な体もです。

すべての人々は平和が欲しいと思います。特に、自分の為です。

人は平和を探しに教会に来ます。ある人の人生はメチャメチャです。最初に教会に来る時、ある人々は神様を探していません。お金や食べ物や友達、又ただの静かな一時が必要と思います。教会の信者達は親切な人々であるのでその人を手伝います。もしかしたら、イエス様の愛を表してその人は神様の本当の愛を見て信者になるかもしれません。祈りますーー神様の助けがあるように、癒しがあるように、問題の解決があるように。信者達は他の人の為に祈ります。健康、救い、永遠の平和の為に祈ります。

それで、今日の福音書の日課を読みますと、イエス様の言葉はショックです、がっかりするでしょう。言われました、

12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。…… 12:49わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。」

それはクリスマスの天使の歌ではありません。平和を造る為に、イエス様が来られなかったのですか?この世が本当に必要とするのは、平和ではありませんか。しかし、イエス様はすぐに平和を持って来ませんでした。人々の心の中で争いを起こしました。人々に神様の事と自分の罪について考えさせて、イエス・キリストによる救いを考えさせたからです。また、イエス様が言われた事は予言でした。イエス様の時代から、多くの家族がイエス様に対する信仰の為に分裂されていました。例えば、現代の日本にも、もし家族の一人がクリスチャンになって洗礼を受けたいと思いましたら、家族からプレシャーが来ます。良い仕事を見つけられないかもしれません。結婚相手をも見つけられないかもしれません。家族のお墓に納骨されないかもしれません。家族の村八分になるかもしれません。数年前ですが、日本人の友達と話しました。それは彼の経験でした。クリスチャンになったので、家族から破門されました。日本では、クリスチャンになる為に勇気が必要です。それで人は考えます。信仰の為に苦しむ価値があるでしょうか。クリスチャンになる事を止めた方がいいでしょうか。しかし、死んで天国や地獄に行く事はどうでしょうか。西暦1547年(マルチン・ルターの宗教改革30年後)フランシスコ・ザヴィエルが最初に福音を日本に述べ伝えました。次の100年間、日本人のキリスト信者が何千人も、拷問され、信仰の為に殺されました。自分の信仰を捨てる事が出来ましたが、イエス様を否定するよりも死ぬ方が良いと彼等は思いました。

ヘブライの人への手紙に、今日の箇所が信仰の為に苦しむ人々の為に書かれています。私達にも希望を与えます。旧約聖書の多くの聖徒が、神様の希望と信仰を捨てるよりも多くの事を苦しみました。「おびただしい証人の群れ」が私達を囲まれますので、私達も偲ぶ事が出来ます。それに、教会の暦の中の多くの聖徒と殉教者を加える事が出来ます。私達と同じ信仰を持って苦しんでその信仰の為に死んだ人がいます。一番優れている例とは、勿論、イエス様です。ヘブライ12:2、「信仰の創始者(そうししゃ)また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

平和の為の本当の争いは、誰に対してするでしょうか。本当の敵は誰でしょうか。テロリストではないし、政府ではないし、家族の人や職場の人でもないし、経済や自分の健康状態でもありません。本当の敵とは罪です。他の人の罪も自分の罪もです。本当の争いはここです。この敵こそは、全世界に戦争と争いと悲しみをもたらします。

イエス様は言われました、「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。」このイエス様の洗礼は、私達が受けた楽しくて平和的なバプテスマと違います。私達のバプテスマは、私達の罪を洗い落とします。そして、使った水の量が少なくても、この洗礼によって、私達は、罪や悪魔に対して溺れて死にます。そして、キリストと共に私達は甦ります。今日の福音書にイエス様が話された洗礼は、御自分の十字架上の死と復活です。溺れ死ぬ事と復活でした。

イエス様は言われました、「私が来たのは、地上に火を投(とう)ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」聖書の中では、神様の火は裁きの火です。悪を滅び、罪を燃やす火です。精練の火です。悪い人を滅びますが、イエス様を信じる私達の為に、私達の罪は滅びますが、洗礼の水は、私達を神様の怒りと神様の火と神様の捌きから守ります。イエス様が地上に火を投げたのは、この地上でこそ、即ち十字架上で、イエス様は悪魔と戦ったからです。そして、悪魔自身の武器を使いました:死と火でした。洗礼の水は罪を赦しますので、地獄の火を消します。

火と水、火と洗礼、神様の怒りと神様の愛、正義と憐れみ、裁きと憐れみ、律法と福音、死と命、地獄と天国、宣告と赦し、死と復活、戦争と平和、心配と安全。

ヘブライ人への手紙には、「おびただしい証人の群れ」が私達を囲まれますので、私達も平和を探す為に偲ぶ事が出来ます。私達が一人ではありません。他の信者達は神様の愛と恵みを証しします。罪と悪魔と誘惑、又人生のすべての問題がある時、彼等は私達と共にいます。又、イエス様の証しがあります。復活しましたので、私達の信仰が確(たし)かであると分かります。それで、私達が困った時にも、平和があります。

アーメン。

主の平和があなたがたの上にありますように。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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