「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる《

しゅろの日曜日、受難主日、2019年4月14日

二人の犯罪人(ルカ23:39*43)

福音記者ルカ:   十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

左の犯罪人:   「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。《

福音記者ルカ:  すると、もう一人の方がたしなめた。

右の犯罪人:  「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。《

福音記者ルカ:   そして、

右の犯罪人:  「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください《

福音記者ルカ:  と言った。 するとイエスは、

イエス様:  「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる《

福音記者ルカ:   と言われた。



イエス様は何回も裁きを受けました。先ず、ユダヤ人の最高法院はイエス様が有罪だと思いました。しかし総督ピラトもヘロデも、イエス様が無罪だと思いました。しかし無罪でしても、ユダヤ人の強い要望があったので、イエス様を死刑にしました。そして十字架上にいるときも、もう一つの裁判のようなものがありました:右と左にいる犯罪人によってです。1人はイエス様をののしって言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。《勿論、イエス様はその事をする事が出来ませんでした。イエス様はメシアであるので、その犯罪人を救う方法は、  御自分を救わない事です。もう1人の犯罪人はイエス様について正しい証をしました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやった  ことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。《そして、イエス様に対して素晴らしい信仰告白をしました、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください《と言いました。では、その時はいつですか。王様として御国においでになるときは、いつでしょうか。このようにイエス様はその質問に答えます。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる《と。イエス様の御国の支配は今日からです。何故ならば、今日、十字架上にいるその日に、イエス様は御自分の死によって悪魔と死を征朊して、罪を赦して、このようにして永遠の命の国を開きます。そして、その犯罪人が祝福されているのは、イエス様と一緒にいるからです。クリスマスの話を思い出して下さい。イエス様が「インマヌエル《と呼ばれています。「インマヌエル《と言う吊前は「神が我らと共にいる《と意味します。イエス様は私達と共にいます。人間と一緒になるために、この地上に来られました。すべての人と共にいました。貧しい人も、犯罪人も、社会的に捨てられた人々と共にいました。イエス様は私達が罪を犯す時にも、私達が 死ぬ時にも、私達と共にいます。そして私達が甦る時にも、私達と共にいます。

イエス様は楽園について話しました。天国を表すために、綺麗な言葉です。この「楽園《と言う言葉は、「パラダイス《です。元々パラダイスとは、ペルシアの国の王様の庭園でした。綺麗な王様の宮殿の中の庭でした。そこで、王様は歩いたり、リラックスしたり、親しい友達と話したりする所でした。昔の日本の殿様の庭園のようでしょう。琉球の王様が作った那覇市にあるしきな園のようでしょう。偉い人だけがそこに入る事が出来ました。そこで殿様と一緒にいる事が出来ました。イエス様はその犯罪人にこのように言われました。「あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいる《と。犯罪人はイエス様と共にその特別な、偉い所にいます。平和の所でイエス様と一緒にいます。

イエス様とその犯罪人の会話がキリスト信者達にとって大好きな会話です。私達の心の中では、犯罪人が話した言葉が私達の気持を表すものだと感じます。私達は罰をうける時、それは、私達が悪い事をしたからです。死ぬ時、それは、私達が罪人であるからです。しかし、イエス様は悪い事を一つもしませんでした。罪に対して、無罪でした。私達の信仰告白とは、私達が罪人ですが、無罪であるイエス様が御自分の上に私達の罪を取って、罪人として、十字架上で死んで下さいました。それで私達の信仰告白とは、イエス様が私たちの王様である事です。イエス様の隣の十字架に架かっている犯罪人はそろそろ死にますし、イエス様もそろそろ死にますので、彼の言葉は変に聞こえるでしょう。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください《と。もしイエス様が死にましたら、王様になる事が出来ないはずです。しかし、その犯罪人の信仰は私達の信仰と同じです。イエス様は力を持って、死とお墓を征朊して王として来られます。私達もそれを知っていますので、私達も言います、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください《と。

いつイエス様が私達の王として来られるでしょうか。私達が死んだ後に、  未来に来るでしょうか。それとも、もう既に来られたでしょうか。「あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいる《と言われました。イエス様は今日、私達の王様です。今日、私達は彼と共にパラダイスにいます。 私達の世界は、パラダイスよりも地獄のように見えるでしょう。しかし、イエス様は今日私達と一緒にいます。今日、私達の王様です。 祈りの中で、親しくイエス様と一緒にいます。静かな庭園の中でイエス様と共に歩いたり話したりするようです。私達がイエス様と一緒にいるのは、先ず、イエス様が私達の所に来られるからです。聖書の中で、聖礼典の中で、私達に話しかけている赦しの言葉を聞く時です。 私達は自分達の十字架を背負う時にも、イエス様が私達と一緒にいます。 その十字架とは、人生の誘惑と試みの時ですし、苦しみや悲しみの時ですし、私達が死ぬ時です。 そして、この人生の喜びの時にも私達と一緒にいます。それはパラダイスがどのようなものか教えます。即ち、パラダイスとは、イエス様と共にいる事です。

アーメン。



十字架上の悔い改めた泥棒の祈り

天の父なる神様、私達は、十字架上にいた悔い改めた泥棒のように、あなたに 祈ります。私達は罪人で、与えられた罰を受けるべきものです。同時に、罪人に対するあなたの愛と憐れみを知ります。あなたは私達の王であるので、十字架上の泥棒と同じように祈ります、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください《(み国を来たらせたまえ)。

十字架上の犯罪人と同じように、私達も人生の状態から逃げられません。自分のいろいろな十字架に付けられているようです。その十字架は、病気を初め、痛み、     癖(くせ)、経済の問題、家庭の問題等等です。自分は自分で自分を救う事が出来る希望がありません。自分の力で何も出来ません。唯一の希望とは、イエス様です。それで、助けや癒しや解放の為に、イエス様に向かって祈ります。十字架上の泥棒と同じように祈ります、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください《(み国を来たらせたまえ)。

主イエス様よ、その泥棒に話した言葉を私達にも話してください。「あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいる《と。あなたが私達と共にいなければ、パラダイスではありません。あなたが私達と共にいますので、パラダイスのようです。私達を導いて守る為に私達と共にいます。誕生から死ぬ時まで、私達と共にいます。ですから、希望と勇気と安心があります。「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください《。

主イエス様よ、十字架にかけられた時、み心でしたら、あなたは、その十字架から降りる事が出来ました。十字架に付けるのは、釘ではなくて、愛でした。その愛の為に、ご自分の上に私達の罪や悩みを取ってくださいました。十字架上に残ったので、私達と共に残りました。あなたは私達を見捨てませんでした。主よ、あなたはいつも私達を愛して、いつも私達と共にいますので、その信頼と希望と喜びを私達を満たしてください。それで、確信と勇気をもって、十字架上の泥棒と同じように祈ります、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください《(み国を来たらせたまえ)。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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