王は告げます: 「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

聖霊降臨後最終主日
2013年11月24日


ルカ23:27−43
23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。 23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

十字架に掛かれた時、イエス様の頭の上に、「これはユダヤ人の王」と書いた札(さつ)も掲(かか)げてありました。ピラトは、それが冗談と思いました。ユダヤ人達はそれが冒涜と思いました。しかし、イエス様の隣の十字架にいる一人の犯罪人は、その通りで、真実であると信じました。それで言いました、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言いました。23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。私達もその泥棒と一緒に信仰を告白します。それは、主の祈りを祈る時です。「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください。」即ち、「み国を来たらせたまえ」と。

私達は祈ります、「み国を来たらせたまえ」。キリスト信者として、この言葉は、先ず信仰告白です、神様が自分の王であると信じる事を現します。自分の王に忠実をつくす約束です。自分達が天の国の国民であるプライドの言葉です。そして、「み国を来たらせたまえ」と祈る時、聖霊がその国の様々のものを私達に持って来るように祈ります。

普通、国の事を考えますと、人か民族と その指導者と その人達が住む地域と その国が守る法律や組織でしょう。国があれば、それを世界地図に書く事が出来ます。神の国は違います。国と国の間の境界線が有りません。神の国は信者達の心の中にあるからです。神の国とは、神様が王様として治める所です。ある意味では、神様は全世界と全創造物の造り主と王様であるので、神の国はどこでもあると言えるでしょう。しかし主の祈りの中では、その国が私達の所に来るように、私達の心と私達の人生の中に来るように祈ります。これが実現するのは、天の父なる神様が聖霊を送って、その恵みによって、私達が神様のみ言葉を信じて、それによって良い人生を送る時です、今も永遠にそうです。即ち、忠実な国民として私達は「主のみ名をあがめさせたまえ、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。

私は、この主の祈りの部分、この願いを祈る時、3つの事を考えます。

1.神の国が天国、この世の終わり、永遠の命と考えます。イエス様は、この世に戻って、この世を裁いて、 王様として支配するように言われました。ある時、私はこの卑しい、ひどい世界を見る時、主が早く帰るように祈ります!(マラナタ!Maranatha)。主がこの世の全ての悲しみとむなしさを終わらせるように 祈ります。永遠のいのちと幸せの時代を早くもたらすように祈ります。私は、その時代を期待しています、もっと早く来ましたら嬉しいです。しかし主がすぐ来なければ、自分が「世の最後の日」の前に死にましたら、主が私を甦らせてそのみ国に入れてくれるように祈ります。病気で死の近い人々にとっては、この祈り「み国を来たらせたまえ」とは、十字架上の泥棒と共に祈ります、「主よ、私は、あなたの永遠の天国に入る準備しました。私にあなたの国が来ますように」と。病気やすぐ死にそうな人と一緒にこの祈りを唱えますと、この祈りは素晴らしい平安と慰めを与える事が出来ます。自分を神様のみ手にゆだねる事です。それこそは楽園のパラダイスです。

2.主の国が今もうすでに来られています。イエス様が公の宣教の働きを始めた時、このように言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。イエス様がいつも私達と共にいます、私達の心の中にいます。神の国、神の支配は今、ここに有ります。私達はこの世の中で住んでいますので、神の国と力と栄えが今来ますように祈ります、先ず、私達の心の中に、そして、全世界の中です。多分、これは主の祈りの中の一番難しい所でしょう。先ず、神様が 私達の心の中を支配するように願います。しかし、私達の罪深い性質で、私達はいつも自由になりたい、独立戦争をしたいと思います。そして、サタンはいつも喜んで応援します、多くの誘惑や悪や苦しみによって、私達が天の父の恵み深い支配を信じない為です。ですから、私達は祈ります、聖霊が私達の心の中に入って、信仰を与え、神の指導に従う力を与えますように祈ります。福音書によりますと、十字架上にいる時、イエス様は王様です。十字架はその王座です。そして、王様として、罪の力、その罪の支配を壊します。イエス様の死と復活によって、彼は本当に偉大なる王様であると分かります。彼はご自分の約束を守り、彼を信じる全ての人々をそのみ国の中に連れて行きます。ですから、私達は「み国を来たらせたまえ」と祈る時、この赦しと愛が私達の心と人生の中に 来るように祈ります。聖霊が私達の心の中に来るように祈ります。その時、神様との平和があるので、パラダイスが私達の心の中にあります。

普通の世俗的な国は、憲法や法律で治められています。神様の国の人々は福音によって生きるのです。実は、私達がする事よりも、イエス様がなさる事、いや、もう既に私達の為になさった事です。しかし、イエス様に従って行く時、私達の人生がその福音によって変えられています。その生き方は山上の説教に説明されています。その時、イエス様は神のみ国について話します。信者達の人生について語ります:世俗的な普通の生活と違います、たまに反対です。イエス様は「貧しい人が幸いである、迫害された人が幸いである」などと言われました。着物や食べ物や将来の事などを心配しないように言われました。空の鳥や野原の百合のように満足しなさいと言われました。勿論、食べ物などは大切な物で、祈る時自分の為、他の人の為にも多くの物を願います。実は、これは素晴らしい、神様を喜ばせる事です、神様は私達が祈って、必要な物、何でも祈るように願っています。しかし、イエス様は一番大切な祈りが何であるか教えました。山上の説教で言われました、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と(マタイ6:33)。神の国、そして、十字架上の王様なるイエス様が与える救いと赦しの為に祈るべきです、そうしますと、神様は私達の必要な全てを与えます。それは神様の御国のパラダイスです。

3.私達は「み国を来たらせたまえ」と祈る時、宣教・伝道をも考えます。人を救う聖なる福音のみ言葉が世の全ての所に行くように、多くの人々が神の国の国民になるように祈ります。伝道をする全ての人々に、私達を含めて、智恵と力が有るように祈ります。そして、私達の教会が成長して、多くの人々が主の祝福を分かち合うように祈ります。その時、世界中の悔い改める罪人は、十字架の上の泥坊とイエス様との会話に入ります。「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と。するとイエス様は私達に言われます、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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