あなたは今日わたしと一緒に
楽園(パラダイス)にいる

 

2007年11月25日
王なるキリストの主日
ルカ23:27―43

第一世界戦争後のヨーロッパの多くの人々は、自分の人生を建て直そうと思いました。新しい指導者を探しました。人間の救い主を探しました。人々を導こうと思った人も多いでした。例えば、ヒトラー、ムソリニーなどです。多くの人々は、彼らが新しいメシアのように考えました。多くの金の子牛を拝みました。例えば、社会主義、共産主義、資本shihon主義など。1925年、ローマカトリック教会・法王ピウス11世は、教会のカレンダーに、新しい日を作りました。聖霊降臨後最後の主日は、「王なるキリストの日」になりました。この日曜日のメッセージは、キリストはこの世の政治的なものに反対するもので、むしろ、それらのものを支配する方であると。ヒトラーやほかの人間の救い主ではなくて、キリストは誠の王です。キリストは私達の人生の王です。この事をお祝いするには、この事を理解して、自分の毎日の人生の一部にすることです。この新しい教会の記念日は多くの教会で気にいられ、受け入れられるようになりました。ルーテル教会もそうです。

今日にも、多くの金の子牛があります。この現代の金の子牛はどの形を取るでしょうか。いろいろあります。例えば、経済、スポーツ、憎しみ、恐れ、欲張り、大望(たいもう)、成功、遊び、インターネット、食べ物、健康などです。私達をキリストから導くもの、私達のすべての時間と関心を引く物は、金の子牛と言えるでしょう。その金の子牛の為に、イスラエル人は荒れ野で罪を犯しました。同じように、私達も、罪と死の荒れ野にまで導かれてしまいます。

ですから、キリストは私達の王です。では、私達の王はどのように見えるでしょうか。「み国を来たらせたまえ」と祈りますが、その国はどこでしょうか、どのようなところでしょうか。聖書は、はっきりと説明します。イエス様はポンテオ・ピラトに言われました、「わたしの国はこの世のものではない。」(口語聖書ヨハネ18:36)。 ですから、普通の王冠(おうかん)、王座や宮殿を私たちはさがしません。普通の軍隊、家来や税金がありません。普通の奇麗な服、大きな車やほかの世俗的な栄光がありません。「私の国はこの世のものではない」と言われましたが、それは同時に、すぐ分かるように、この世に関わりがあります。何故ならば、僕である私達がこの世に属しているからです。

福音書の話しでは、イエス様が王となる儀式は、十字架に付けられる時です。イエス様の頭の上に書かれたものは、「これはユダヤ人の王」と書かれた札(ふだ)でした。ピラトは、それが冗談だと思ったかも知れませんが、しかし事実でした。イエス様がユダヤ人の王であったからこそ、十字架に付けられました。これは、私達の救いの為に大切です。ご自分を救わなかった事によって、私達を救い出して下さいました。私達の王様は、そのような、ご自分の事を考えない、ご自分を犠牲としてささげる王様でした!このように言われました、「 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)。イエス様が十字架にかけられた時、人々は「万歳!」と叫ばないで、侮辱(ぶじょく)の言葉をかけました。いばらの冠を編んでかぶらせられました。侮辱する為に、イエス様に紫の衣を着せましたが、最後に、くじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえで、イエスの着物を分けました。十字架の右手の人は、泥棒でした。しかし、私達キリスト信者達に分かるように、私達も神様の目には、十字架上の死刑に受けるべきものであると思います。

そして、一人の泥棒は、そのすばらしい信仰の告白を言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰(けいばつ)を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。口語約聖書:イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

聖書の言葉は「パラダイス」です。パラダイスは、天国と永遠の命を現します。しかし、イエス様がこの言葉を選んだのは、このコンテキストに丁度良いからです。「パラダイス」とは聖書のギリシャ語やヘブライ語でもありません。ペルシア語の言葉で、「壁に囲まれた園」を意味します。ペルシアの王様個人の園でした。特別な園で、王様は、特別な客だけをそこに連れて入りました。その園に入り、王様と共に歩く事は、非常に高い栄誉(えいよ)でした。昔の沖縄にも、そのような園がありました。主里城に近いしきなええんと言う所です。今は、だれでも入る事が出来ますが、昔は、王様や王様の客、例えば、中国から来た偉い人だけがそこに入る事が出来ました。とっても奇麗で、平和的な、憩いの所でした。私ははっきりと分かりませんが、アメリカには、Camp David と言う所があります。大統領の個人的な所で、大統領の特別な客がそこに入る事が出来ます。入ると栄誉です。大昔、そのような所は、パラダイスと呼ばれていたみたいです。そのような所に、悔い改めた泥棒が、イエス様と共に行きます。パラダイスの王様であるイエス様の特別な客になります。まるで、エデンの園のようです。

私達はイエス様を自分の王として考える時、だだ、遠く離れて、象牙(ぞうげ)の王座に座るお方としてだけ考えない方が良いです。イエス様はご自分の国の国民の一人です。私達と共にいるのは、パラダイスの中だけではなくて、今、今日、私達と共にいます、そして、この世は、たまに、パラダイスよりも地獄のように見えるでしょう。私達が苦しむ時、自分の十字架を背負っていると感じる時、イエス様は私達と共にいます。私達が死ぬ時にも、私達と共にいます。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。しかし、パラダイスに行く前に、イエス様は全然違う所に行かなければなりませんでした。地獄に行かなければなりませんでした。悪魔や罪の力を破戒(はかい)する事が出来なければ、私達がパラダイスに行く事が出来ません。イエス様はその悔い改めた泥棒をそこに連れて行きませんでした。その仕事は、私達の王、私達の救い主しか出来なかった仕事でした。

「御国を来たらせたまえ」と祈ります。イエス様が自分の王様になるように祈ります。私達の人生のただ一つ、誠の指導者になるように祈ります。この祈りは、信仰告白です。この世の金の子牛が滅びに至ると告白する信仰です。この世のただ一つの救い主とは、イエス様です。その悔い改めた泥棒のように、イエス様以外には救いがないと分かります。自分の十字架上で自分が何もできないと分かって、本当の信仰を持ってイエス様に言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。それは、私達の信仰の祈りです。毎日、王なるキリストを信頼する祈りです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会