無罪のイエス様

棕櫚主日、2016年3月20日


ルカ22章と23章

ルカによる福音書の受難の記録を読みマスと、イエス様は無罪であったと見ますが、多くの人が有罪でした。イエス様を裏切ったユダ、イエス様を否定したペテロ、イエス様を嫉妬した祭司達、正義を無視した最高法院(さいこうほういん)、ただ遊ぼうと思ったヘロデ、群集を恐れたピラト、イエス様を侮辱した兵隊達、人殺しであるバラバ、イエス様をいたずらした十字架上の泥坊です。しかし、裁判があっても、イエス様の上には、本当の罪を見つけられませんでした。しかし、イエス様は無罪ではありませんでした。と言うのは、御自分の上には、世の罪があったからです:私の罪とあなたの罪でした。それで、イエス様は、歴史上の最も罪深い人で、最も死ぬべき者でした。そして、そのような不思議なやり方で、その日に正義が行われていました。そのような不思議なやり方で、イエス様の苦しみと死によって、私達が無罪であると宣言されました。

ピラトは3回もイエス様が無罪であると言いました。十字架上の犯罪人の一人は「この方は何も悪い事をしていない」(23:41)と言いました。最後に、十字架の下にいた百人隊長は「本当にこの人は正しい人だった」(23:47)と言いました。

イエス様に対する訴え(うったえ)とは何だったでしょうか。(22:66)祭司長達や民の長老会達は、イエス様がキリスト、即ちメシアであるかどうかとイエス様に聞きました。イエス様はそれを否定しませんでした。今度、イエス様が神の子であるかどうか聞きました。「私がそうだとは、あなたがたが言っている」と言われまして、それを否定しませんでした。勿論、本当に誠のメシアのキリストで、本当に神様の子でしたが、彼らがそれを信じませんでした。それで、それが神様に対する侮辱であり、冒涜(ぼうとく)だと裁きました。モーセの律法に従いましたら、彼らがイエス様を石なげで殺すはずでしたが、死刑の権威がなかったので、彼らがイエス様をローマの総督ピラトのもとに連れて行きました。

ピラトの前で、宗教的な訴えはいけないので、政治上の訴えが必要でした。それで23章2節、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と言いました。それでピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問(じんもん)すると、イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになったのですが、否定しませんでした。

実は、イエス様は訴えられた通り有罪でした。彼はキリストで、神の子で、ユダヤの王でした。

しかし、十字架の死刑は正しい罰でしょうか。ピラトは3回目に言いました、23:22, 「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」モーセの律法に従いましたら、彼らがイエス様を石なげの刑で殺すはずでした。しかし、別の理解する方法ですが、イエス様は世の罪を取り除く神の子羊であるので、犠牲として神殿の祭壇の上に神様にささげて、彼の血を神殿の至聖所につけるべきでしょう。しかしこの日、祭壇は十字架でした。

イエス様は無罪だったでしょうか。全ての時代の人々、各々の人は、イエス様を裁かなければなりません。あなたと私も、イエス様が無罪かどうか裁かれなければなりません。速く決めない方が良いでしょう。「されこうべ」(23:33)と言う所に、十字架を何本立てるべきでしょうか。二つだけでしょうか。又、全ての世の罪人の為に、何億何千の十字架が必要でしょうか。又、あなたの名前が書かれた札がある十字架もあるでしょうか。もし、あなたがイエス様は自分の救い主であると信じましたら、もし、自分は罪人であるが、イエス様があなたの罪の為に死んで下さったと信じましたら、もし、神の子・神の子羊であるイエス・キリストが、世の全ての罪を御自分の上に取って下さったと信じましたら、その場合、その日、その丘に立てる十字架が一本だけですみます。即ちイエス様の十字架です。

イエス様は世界一の無罪の人でした。聖金曜日で、世界一ひどい罪人になりました。イースターの朝、再び清くて無罪に戻りました。彼の死と復活によって、私達の罪が除かれていますので、私達はイエス様の無罪を分かち合います。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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