私達が見捨てられていない

聖金曜日、2022年4月15日

2,3年前の聖金曜日の説教で言ったのは、十字架上のイエス様の最後の言葉の第4の言葉がキライと。マタイ27:46 『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。《これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか《という意味である。』この言葉がキライと言う理由とは、もし神様はご自分の愛する一人子を見捨てる事が出来ましたら、神の子供である私をも、苦しい時や困っている時に、見捨てるでしょうかと。ご自分の子を見捨てる神を信頼する事が出来るでしょうか。私は神様を愛します、神様が私を愛すると知って、いつまでも私と共にいるように約束しましたと信じます。それで、私は勝手にその言葉の意味を変えました。と言うのは、詩篇第22篇がその同じ言葉で始まります、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか《と。それで、その言葉はその詩篇の題吊にすぎません。十字架上でイエス様がこの詩篇を祈った時、確かに十字架の苦しみを表すでしょうが、彼が父なる神様に見捨てられないでしょう。

しかし、最近、この言葉のマルチン・ルターの説明を読みました。今は、この言葉は、十字架上の他の言葉より大切と思います。純粋な福音です。

どの理由で父なる神がご自分の息子を見捨てるでしょうか。ただイエス様がすごくひどい罪人であったからです。実はそうです、十字架上にいる時、イエス様は世の罪をご自分の上に取りました。それは私とあなたの罪を含みます。それで、イエス様が死んだのは、人間の人殺し、強盗,ウソの為です。ですから、ご自分の父である神様に見捨てられました。

しかし、イエス様は私達を見捨てませんでした。十字架上の時にも、イエス様は独りではいませんでした。私達と共にいました。私達の罪をご自分の上に取る時、私達をご自分の心の中に取り入れました。十字架にいる時、彼は私達と共にいました。私達はキリストに見捨てませんでした。

もし私達の罪を取りましたら、私達がその罪を犯す時にその所にいると意味します。私達が誘惑されている時、私達と共にいますし、その罪を犯す時にもいます。この素晴らしい慰めが主の祈りを教えて下さった時のイエス様の約束です。「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。《言い換えますと、試みられてその罪に落ち入る時、キリストが私達を悪より守るように祈ります。この世の悪とサタンの悪から救われているので、永遠の救いになります。何故ならば、イエス様は私達と共にいますし、いつまでも、世の終わりまでに、私達と共にいるように約束するからです。それで、十字架上の時にも、イエス様は私達を見捨てませんでした。

本当に、イエス様がご自分の父なる神様に見捨てられました。しかし、十字架上で私達の罪が赦されています。それで、イエス様の上にあった罪も赦されていました。それで、もうひどい罪人ではありませんで、神の清い・罪がない子羊でした。十字架上のイエス様の第7の言葉、最後の言葉はマタイ23:46です。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。《

清い、聖なる者として、ご自分の父に受け入れられまして、3日目に甦りました。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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