ほかの福音が無い

2016年5月29日

ガラテヤ 1:1-12
1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 1:2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。 1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。 1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

キリスト教の福音以外には、福音がありません。時間が勿体無いですが、人はいつもほかのものを探していますが、ありません。聖パウロは、まことの救い。イエス・キリストの福音を述べ伝えましたので、ガラテヤの町のキリスト信者達がそのメッセージを変えたので、びっくりしました。言いました、「1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」この言葉は、先ずガラテヤの教会の為に書かれていたのですが、私達の為にも書かれていました、それは、私達も、イエス・キリストの純粋な福音を知る為です。

先ず、「福音」という言葉を定義しましょう。聖書の言葉とは、「オイ・アンゲリウム」です。一般的な昔のギリシャ語では、すばらしい メッセージ、おめでとうの知らせでした。それで、赤ちゃんが生まれる時や、敵に勝って、戦争が終わった事は、「オイ・アンゲリウム」、良い知らせ、福音でした。 クリスチャンの天使がこの言葉を羊飼い達に語りました。ルカ2:10、「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

英語の言葉はGospelです。最初は、Good-spell でして、そして神様のことでしたので、God-spelでした、そして、発音を柔らかくして、Gospelになりました。キリスト教のメッセージや歌を意味します。時々、神様のメッセージの正しい話がgospelのようだという表現もあります。日本語での、「福音」という言葉はとってもふさわしいと思います。祝福された事を述べ伝えて、私達に祝福を与えます。

次に、キリスト教会の福音という事を定義しましょう。このガラテヤへの手紙の中で、聖パウロは、福音をこのように述べます。先ず、ガラテヤ1:3-4、「私達の父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 キリストは、私達の神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私達を救い出そうとして、御自身を私達の罪のために献げてくださったのです。」

そして、2:15-16、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

3:11、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」

5:1、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷(どれい)の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」

言い換えますと、福音とは罪の赦しを与える、十字架上のイエス・キリストの働きのみによる、神様の恵みと平和についての、すばらしい訪れです。福音は私達がする事に関係が全然有りません。キリストがした事のみです。その結果は、恵みであり、平和であり、義と自由と救いです。聖パウロが腹が立つのは、人が救いの為にキリストの働きに、何かをつけくわる時です。例えば、キリストプラス私の良い業。キリストプルス十戒を守る事。キリストプラス旧約聖書の儀式を守る事。キリストプラス一割献金。キリストプラス教会の為の奉仕や伝道。キリストプラス聖書についての特別な理解。キリストプラス何かに加えることは、キリストの十字架上での働きから目をそらします。それでしたら、キリストの十字架の働きが足りない、完全ではない、無効になるからです。そして、弱い罪人である私達にとっては、それが福音ではない、慰めと安心を与える福音ではないからです。

私達の回りの世には、自分が新しい救いで、自分が新しい良い知らせであると言います。そのものは、赦しと永遠の命についてではなくて、どのように、一時的に罪の中で生きる方法を教えます。罪を赦さないで、罪を許します。罪を清めるよりも、罪を犯してもいいと許可(きょか)を与えます。それは福音のように聞こえるでしょう。自由のように聞こえます。しかし、悪魔のワナです。罪は、最後に奴隷と死に至ります。何故ならば、キリストを信頼する事よりも、自分やほかのものを信頼するように至るからです。だから、ある振舞いが「罪」と定義されています。乱暴な振舞い、人に対いる乱暴、麻薬やお酒に対する乱暴、盗(ぬす)み、人殺し、欲張り、等など。誘惑に抵抗するのが難しいでしょうが、聖霊は私達に次の聖霊の実を下さいます。「愛であり、喜び、平和、寛容(かんよう)、親切、善意、誠実(せいじつ)、柔和(にゅうわ)、節制(せっせい)です。」(5:22-23.)

聖パウロは私達に純粋な福音を現わします。キリストを現わします。キリストのみ見せます。教会には多くの教えがあります。それを聖書研究や説教や小教理問答書のクラスで学びます。それはキリストに光を当てます。何故ならば、この世の暗闇(くらやみ)、罪のゴミ、私達の反抗的な心が、キリストのみに信頼したくないからです。聖書研究や説教や小教理問答書のクラスや、教会学校は私達にキリストについて教えたり、純粋な福音の中に生きるように訓練します。

福音とは、罪の赦しを与える、十字架上のイエス・キリストの働きのみによる、神様の恵みと平和についてのすばらしい知らせです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト