神の小羊

新年  A.D. (=Anno Domini = 主の年)2015年1月1日

詩編 23編、 ヨハネ10: 1〜16



明けましておめでとうございます!

Happy New Year, AD 2015, Anno Domini 2015, The Year of Our Lord 2015, 主の年2015年。又、羊の年です。私達が日本にいますので、聖書の中に〔羊〕を調べたら、面白いだろうと思いました。コンプターの聖書ソフトで調べました。 “羊”や “小羊”や “羊飼い”をも含みますが、旧約聖書で610回、新約聖書で161回でてきます。

創世記4章で、羊飼いのアベルが羊を、生け贄として神様に捧げる時から、黙示録22章で、キリストが天国で父なる神様のそばにいる小羊である時までです。又、綺麗な詩篇23篇です。「主は私の羊飼い、私には何も欠ける事がない。」又、イエス様は言われました。「私は良い羊飼いです」ヨハネ10:11.そして、勿論、バプテスマのヨハネの言葉です。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」ヨハネ1:29.出エジプトの時の過ぎ越しの羊があります。エルサレムの神殿で、毎日、羊や小羊の犠牲がありました。それは、神様に感謝する犠牲も、罪を赦す為の犠牲もでした。イエス様は、最高の犠牲の小羊になりました。世の罪を赦す為に十字架上で死にました。聖書の中では、羊の利用方法は、そのウールの毛、人の食べ物、又犠牲です。

新しい年の初めで、今年を、どのように生きたら良いだろうかと考えます。将来が分からないので、何が起こるか知らないので、すべてのものの為に、準備する事が出来ないけれど、心と思いを準備したら、何にでもたち向かう事が出来ます。それが出来るのは、どんな事があっても、神様が私達と共にいると知るからです。それは聖書の明確な教えです。そして、私達がそれを分かる為に、聖書は羊や羊飼いの例えを使います。私達は農家に住みませんので、実際に見た羊は動物園やテレビでしょうが、私達は聖書の例え話が簡単に分かると思います。

今年、ある時、詩篇23篇の言葉ようようでしょう。「主(しゅ)はわたしを緑(みどり)の野(の)に休(やす)ませ、憩(いこ)いの水(みず)のほとりに伴(ともな)い、わたしの魂(たましい)を生(い)き返(かえ)らせてくださる。」人生は幸せ、楽しい、面白いです。友達と家族がいます。痛みや心配がありません。その時、その祝福の為に神様に感謝しましょう。人が私達に親切な事をする時私達はいつも感謝の礼を言うように、神様にも礼を忘れないようにしましょう。

今年、ある時、狼や泥坊におそわれているような時もあるでしょう。文字通りになるかもしれません。沖縄には狼がいないですが、ハブを始め、交通事故、アイデンテティ泥坊などがいます。その人は敵ではありません。私達のお金が大好きだからです。本当の敵とは、私達を憎む者で、し返しが欲しい、私達に害を与えたいと思います。私達を憎んで不信頼するのは、私達はその人に悪い事をしたかもしれません。赦しと信頼は難しいです。その時、私達の良い羊飼いで有るイエス・キリストに祈らなければなりません。「主よ、われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。主よ、病気や事故の時、私達を守って下さい。いや、主よ、それよりも、悪に行く道を避けるように導いて下さい。」ある時、私達を導く為に、神様はその「鞭(むち)」と「杖(つえ)」を使います。私達についたり、押したり、引っ張ったりします。それをするのが私達を愛する主であると、分かるように祈ります。又、私達が主の導きを受け入れるように祈ります。

聖書の中で、羊は生け贄の為に使います。クリスチャンとして、私達に分かるのは、他の人がよく活きる為に私達は自分の命をかけます。自分の利益の為にではなくて、他の人を助けます。他の人の為の奉仕です。イエス様はその意味を教えます。ゲツセマネの園で、このように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。別の時にこのように言われました、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。しかし、最高の犠牲とは、世の罪を取り除く為に十字架上で死んだ時です。それでバプテスマのヨハネの言葉を成就しました、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。イエス様は同時に良い羊飼いであり、神の小羊です。この組み合わせは純粋な福音です。この福音こそは、この新しい年に導く力を与えます。

聖書の中では、犠牲の他に、羊が食べ物やウールの為に使います。食べ物として、私達も他の人に力と栄養を与えます。ウールとして、私達は他の人に暖かさと慰めと喜びを与えます。どのようにそれをするか、自分で考えて下さい。

聖書の中で、羊がペットになる箇所を一つだけ見つけました。それは、第二サムエル記2章です。(ダビデ王はバト・シェバと結婚したいと思ったので、彼女の夫ウリヤを殺させました。)その時、預言者ナタンはダビデに話しました。「貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに、何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀(わん)から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった」(2サムエル記12:3)。神様が私達を御自分のペットのように、考えているかどうか分かりませんが、神様は私達を愛する事が分かります。ペットが全部の為にその飼い主にたよるように、私達は完全に神様にたよります。

今年、私達皆の為に良い年になるように祈ります。平和と喜びと愛にみちみちしている年になりますように祈ります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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