ナタナエルとは誰ですか?

2012年1月15日

ヨハネ1:43−51
1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

ナタナエルと言う弟子は誰でしょうか。ヨハネ1章とヨハネ21章にしか出て来ない人です。しかし、普通に考えられているのは、彼はほかの3つの福音書と使徒言行録に出てくるバルトロマイと同じ人です。教会の歴史と伝統(でんとう)によりますと、アルバニア地方で宣教師として働きました。ヨハネの福音書の中では、ナタナエルはフィリポの友達です。フィリポは、最初にイエス様に呼ばれた弟子達の内の一人でした。そしてフィリポは、ナタナエルにイエス様の弟子になるように誘いました。言いました、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」フィリポはイエス様がどなたであるか確信しましたが、ナタナエルはそうではありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と彼はいいました。ナタナエルはナザレの町を知りました。自分の古里のカナと言う町がナザレに近いからです。その二つの町の間には競争があったかもしれませんが、ナタナエルが知るのは、ナザレはカナと同じように、小さい田舎の町でした。偉い人がそのような所から出ないと思いました。イエス様はどの者か分かると思いました、普通のラビの先生だろうと思いました。その上、彼は多分メシアが、ベツレヘムに生まれると教える聖書の箇所を、知っているのでしょう。しかし、フィリポが自分の友達であったので、ナタナエルはこのナザレのイエスと言う人に会いに行きました。

ナタナエルはイエス様が本当にどなたであるか知りませんでしたが、イェス様はナタナエルが誰であるか知りました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われました。この人はいつも正直に本当の事を言います。決して嘘を言わないで、人をだます事もありませんでした。イェス様はこの事を誰かについて言われますと、それは良い賞賛(しょうさん)の言葉です。何故ならば、最初のイスラエル人であったヤコブは、偽りの名人で有名な人でした。長男であるエサウの遺産を奪う為に、自分がエサウであるようなふりをして、自分のお父さんをだましました。エサウが彼を殺そうと思ったので、ヤコブは家から逃げました。夜に成って、ベテルと言う所で寝る時、夢を見ました。創世記28:12、「先端(せんたん)が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」その夢の中で、神様はヤコブを守って祝福するように約束しました。しかし、ナタナエルは偽りのない人でした。

イェス様は、ナタナエルは誰であるか知りましたが、ナタナエルはまだその事を疑いました。イェス様に言いました、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエス様は答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたのです。この個所で、私達はイェス様がどのお方であるかを教えるヒントを見ます。イェス様の超自然の力を見ます。イェス様のほかの奇跡と同じように、イェス様が誰かを教えるしるしです。ナタナエルは感動して、イェス様の事を信じて言いました、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と。イェス様はキリストである、救い主であると信仰告白しました。この告白をもう一人の疑い深い弟子からもう一度聞きます。復活されたイェス様と出会う時、トマスは言いました。「わが主、わが神」と。奇跡は素晴らしいものです。私達は人を裁く時、その人の言葉よりもその人の技によって裁きます。そのように私達はイェス様を裁きます。イェス様の教えは素晴らしいですが、彼の奇跡の中には、イェス様の本質を表わすしるしが有ります。それで、復活の奇跡の中には、イェス様が神の子、イスラエルの主であり、私達の主と救い主である確かなしるしが有ります。イェス様はナタナエルに言われたのは、彼をいちじくの木の下にいる事を見るのは、小さな大切ではないものであると言われました。更に言われました、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」その最後の言葉はヤコブが見た夢のようです。イェス様の言葉は、イェス様が復活した時に空っぽのお墓に現れた天使を指すか、又は、世の終わりにイエス様と共に来る天の天使を指すかでしょう。両方の時、私達は確かにイェス様がどなたかが分かります。

イェス様はどなたでしょうか。ナタナエルの話は、イェス様を信じるようになるすべての人々の話です。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とは私達皆の最初の質問を表します。イェス様はどなたでしょうか。イェス様は私が誰であると知るでしょうか。私は本当に誰で何でしょうか。宗教的な霊的な道の第一歩で、ある人は、人生の大きな質問をします。人生の目的とは?私の人生の目的とは?私に生きる理由があるか?神がいるか?存在するか?イエスが神か?神が私の存在を知るか?イェス様は私を見るでしょうか?

その最後の質問は一番大切な質問です:イェス様は私を見るでしょうか。自分がいちじくの木の下にいる、私がどこにいても、私を見るでしょうか。自分が一人でしても、秘密のような事をしても、私を見るでしょうか。イェス様が私の人生と私の心の中を見るでしょうか。私の喜びをも恐れをも、私の良い技も私の罪を見るでしょうか。答えとは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」のです。イェス様は私達を見ます。私達の状態を知ります。ですから、マルコ1:15で、公の宣教の働きの一番最初に言われたのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。私達が悔い改める事が必要であると分かります。私達が完全に神様に従っていないと分かります。私達皆は偽りがないまことのイスラエル人 ではありません、偽りがないクリスチャンではないと分かります。イェス様は私達の偽り、私達の嘘、私達のすべての罪を知ります。

イェス様が自分を見ていると理解し始める時、その同じ時、自分が本当にイェス様を見ていると理解します。イェス様が私達は誰であるかと理解する時、その時、私達はイェス様がどなたであるかを理解します。ナタナエルと共に私達も言います、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」私達が幻を見ているようです。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、」見るようです。私達はイェス様の栄光を見ます。奇跡の中の栄光をも復活の奇跡の中にも栄光を見ます。又、十字架上のイェス様の中にもその栄光を見ます。私達の毎日の生活の中で、自分のいちじくの木の下の所のような所に身をかくしても、神様が私達を見たと分かります。私達の罪も私達の恐れも見ました。赦しの為に祈る私達を見ました。他の人の為に祈る私達を見ました。しかし、公に、十字架の木の上で身をかくさないで、私達の為に祈るすがたを私達は見ます。彼には偽りがありませんでした。しかし、その私達の偽りの罪をも、私達のすべての罪を赦す為に御自分の上に取って下さいました。その時、イェス様が本当にどなたでるか見る事が出来ます。私達を愛して下さるお方です。私達を見守って下さるお方です。私達のすべての試みと問題と悩みを見ます。私達の祈りと賛美をも見ます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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