狭い門

2007年8月26日、聖霊降臨後弟13主日
イザヤ
66:18-23、ヘブライ12:18-29、ルカ13:22-30

イエス様と彼の弟子達はエルサレムの町に向かって進んで歩きました。そこで、イエス様は私達の罪を赦すために、又、死と悪魔から私達を救う為に、十字架上で死にます。エルサレムは救いの所でした。それで、天国を良く表します。ヘブライ12:22が言います、「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」と。しかし、天国の国民、天のエルサレムの市民に成るのは、誰でしょうか。イエス様はエルサレムに向かって進んでいたので、誰かが彼にその自然な質問をしました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」即ち、天国に行く人々の数は、限れていて少ないでしょうか」と。

イエス様は「何人か」と答えないで、代えって、「救いの方法」を教えました。言われました、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」イエス様は、人々が信仰告白するように、そして、その信仰を生かす決心を人々に要求しました。

しかし、現在の人々も分かりたいと思うことは、「救われる人は少ないか、多いか」と。実は、これは大切な質問です。これが分かれば、私たちは私達の感情も、行動も変えるからです。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」と言う質問には、4つぐらいの意味があります。
(1)先ず、私自身が天国に行くだろうか。私は、その選ばれた、運がよい少ない者の一人でしょうか。問題は、自分に自信がない時があるからです。自分の罪と自分の無価値な状態を考えたら、自分の救いを疑います。神様は私を充分愛して赦す事が出来るでしょうか。自分の罪の為に、自分がその狭い戸口を見ないで、広くて、簡単で死に至る道(マタイ
7:13)を歩いてしまっているでしょうか。私達の心配とは、私達は外に立って、戸をたたき『御主人様、開けてください』と言っている人々の中にいる事です。心配するのは、神様は私達に、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と話す事です。
(2)ある時、その質問は「私の家族や愛する者が救われているか」と意味します。誰かが言いましたが、戸口が狭くて、一人しか通れません。即ち、だれも、祈りや、献金や、免罪符によって他の人を助けられません。私は自分のイエス様にたいする信仰には確信がありますが、ほかの人の心のなかまではわからないのです。しかし復活するとき天国で彼らと再会したいのです。後で、クリスチャンではない家族について話します。その人は天国に行く事が出来ますか?
(3)どんなに少ないかと聞きますと、自分が憎む人が天国に行けないほど小さくしたいと思います、例えば、怒った時、人に「地獄に落ちろ!」と呪って言いますと、その人はどうでしょうか。又、あるキリスト教会の教派は宗教的に別の宗派を地獄に定めます。どうなるでしょうか。他の人を裁くことを良く考えなければなりません。
(4)最後に、「神様はどんなに厳しいか、どの程度、赦して下さるでしょうか」と聞きます。即ち、「自分がどれぐらいの大きな罪を犯しても良いでしょうか。その狭い道はどんなにきついでしょうか。」何故ならば、羊のように、良く迷います。フェンスの向こうの草がおいしそうに見えるからです。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」イエス様は直接に答えて下さいませんでしたが、人間は2つの正反対の答えをします:「はい」と「いいえ」です。「すごく少ない」又、「すべての人が救われる」と答えます。最後に、すべての人が、皆が救われると言う考えは「普遍救済説fuhenkyuusaisetsu」と呼ばれています。神様は世界とすべての人々を愛しますので、愛する者を救うでしょうと。十字架上で流された血には、全世界の罪を赦す力があるので、確かにその通りにするでしょう。イエス様を知らない人も、自分の罪を悔い改めない人をも救うそうです。そうでしたら、福音伝道をしなくても良いです:仏教やヒンズー教やイスラム教の人も、無神論者も、人殺しも、悪魔を礼拝する人でも天国に行きます。そうでしたら、食べたり、飲んだり、楽しんだりして、明日の事を心配しなくてもよいです!神様は愛だからです。普遍救済説は慰めを与えます。多くの人はそのように希望して、そのように人生を送ります。例えば、クリスチャンの為に、キリスト教を知らない、キリスト教を拒む家族が教会に行かなければ、これは一つの慰めになります。人は、愛する人と天国で一緒になりたいと思いますので、彼らの事を心配します。ですから、この「普遍救済説」は一つの慰め、希望です。あいにく、聖書はそのように教えません。イエス様は次のように教えます。参考の為に、はっきり話す聖書の箇所を5つ読みます。

ヨハネ3:16−18、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

使徒行伝4:12,「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

マルコ16:16,「 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

ローマ10:9−10,「 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

ルカ13:24,「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

普遍救済説の反対は、救われた人の数が非常に少ないと考える事です。何人でしょうか。エホーバ証人の有名な答えは、144,000人です(それは、黙示録7章の誤解に基づいています)。あるキリスト教の教派や小さな派閥は、自分の小さいグループだけが正しい宗教の知識や啓示があるので、自分達しかその狭い戸口を見つけられませんと言います。これについて、多くの宗教的な冗談と笑い話がありますが、同時に、これについても、多くの論争があります。分裂した教会もあり、分裂された教派もあり、キリスト教こそが何千の宗派に分裂されています。異端は、自分や自分のグループしか救われていないと思います。天国には、ルーテル教会の人だけいるでしょうか。ローマカトリックだけいるでしょうか。

私個人が心から信じるのは、ルーテル教会の信条は聖書を一番正しく説明する事です。そのように信じなければ、ルーテル教会の牧師として按手を受けませんでした。すべてのクリスチャンがマルテェン・ルターの小教理問答書やアウグスブルグ信条に同意したら素晴らしいと思いますが、キリストが世の終わりに帰る前に、そうなると期待しません。でも、私達を救うのは、そのキリスト教の宗派ではありません。聖霊の働きが私達を救います。聖霊は私達の心に信仰をもたらすからです。そして、信仰によって、イエス様の十字架上での死の利益をいただきます、即ち、罪の赦し、救いと永遠の命です。それはその狭い戸口です。私達は自分の良い業を持っていく事が出来ない程狭いです。又、私達は自分の悪い業をも持っていく事が出来ない程狭いです。戸口は十字架です。又、イエス様のお墓の開いた戸口です。そして、最後に、イエス様は私達をまねいて言われます、ルカ11:9「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」そして、イエス様は天国に行く人々が多いと話して下さいます。自分の救い主としてイエス・キリストを信じる人々、皆が救われます。ルカ13:29「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド
沖縄ルーテル教会、牧師