多く赦された、多く愛する

2007年6月17日
聖霊降臨日後第3主日
ルカ7:36−50

7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

キリスト教会の中心的な教えは何ですか。それは赦しだと私は思います。それは、十字架のメッセージ、すなわち、イエス・キリストによる罪の赦しです。十字架はキリスト教会のシンボルで、赦しはキリスト教の中心にある教えであり、キリスト者の人生の中心です。もちろん愛はその中心に近いですが、それは、愛が人を赦すからです。赦しによって、愛の無い状態を引き起こす罪などを打ち壊すので、それで人を愛する事が出来ます。イエス様は多くの赦しについての例え話を話しました。またその宣教の働きの中で、赦しについて出来事も沢山ありました。今日の福音書はその出来事の一つです。

今日のお話には3人の登場人物がいます。イエス様、ファリサイ派の人のシモンと「罪深い女」と呼ばれた女の人です。私は多分シモンが好きだろうと思います。彼と聖書などについて話す事が出来るからです。彼は宗教的なけいけんな人でした。よいファリサイ派の人で、出来るだけモーセの律法に従って生活を送りたいと思いました。罪を起こさないような聖なる人生を送りたいと思いました。神の国についての興味があったので、イエス様と一緒に食事をしたいと思い、イエス様を招きました。シモンは、イエス様が預言者だろうかと思いましたが、その女の人が来て、イエス様の足に接吻して香油を塗ったので、シモンはイエス様の事を疑い始めました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思ったのです。勿論、イエス様は彼女がどんな人か分かりましたし、シモンもどんな人かも分かりました。

聖書の時代、客の足を洗う事は、普通のもてなしでした。暑くて、ほこりぽい道を歩いた後には、とてもいい気持ちでしょう!現代のもてなしは、暖かいおしぼりでしょうか。私達はお客様に、おじぎしたり握手したりしますが、聖書の時代、又現在でも、多くの所にお客様を抱いたり、接吻したりします。頭にオリーブ油を塗る事に当たる現代の習慣は何でしょうか。髪の毛をとかす事でしょうか。とにかく、このような事は普通のもてなしでしたが、シモンはイエス様の為にしませんでしたが、その女の人は、さらに優れている方法でイエス様の足を洗いました。涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐって、足に接吻して、足に香油を塗ったのです。これはさらに勝ったもてなしでしたし、愛のしるしで、彼女のイエス様にたいする礼拝に近いです。

シモンはこの人を「罪深い女」と呼びました。どんな罪か教えられていません。しかし、ファリサイ派の人々にとっては、自分達のようにモーセの律法をきびしく守らないすべての人々を「罪人」と呼びました。もしかしたら、彼女は食事の規定を守らなかったでしょう。又、彼女や彼女のご主人は、ローマ人と商売したかも知りません。ローマ人は宗教的に汚れていたので、その人と接触したら、ユダヤ人は宗教的に汚れてきますので、「罪人」になります。又、彼女は売春婦かも知りませんが、この聖書のテキストは別にそのようには言いません。しかし、シモンにとっては、彼女は汚れている罪人でした。彼は彼女と接触(せっしよく)したくないし、彼女に触れられてもいけないと思いました。ですから、もしイエス様が神様の預言者でしたら、どうしてイエス様が、ご自分の聖なる体を、たとえ足でも触sawaる事を許すのか理解する事が出来ませんでした。

私達が聖書の物語を読む時、その話しの中に溶け込んでしまい、一人の人物を自分のようだと考えます。今日のお話しの人物が、自分のようでしょうか。あなたはシモンのようでしょうか、それとも、その女の人のようでしょうか。あなたは普通、神様の律法を守る、自制心に富んだシモンのようですか。または自分も多くの恥ずかしい罪を犯したので、罪を告白して赦しをいただく事が必要である、その女の人のようでしょうか。またシモンのように、罪深い生活を送る人を軽蔑しますか。又、赦されて、イエス様に救われて、喜びがあなたの心から溢れるでしょうか。

毎週教会に通うクリスチャンには、一つのワナがあります。毎週、自分の罪を告白して、罪の赦しをいたがきますので、心や良心には、沢山の赦されていない罪がたまっていないかもしれません。それがワナだと言ったのは、福音書の女のような感謝の気持ちが無いかもしれないからです。シモンのようになって、自分の救いが当たり前と思うかもしれません。赦しが少ないので、赦された喜びも少ないかもしれません。

喜びの事だけではありません。愛の事もです。イエス様はシモンに言われました、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」しかし、その女に対して、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」赦しの結果は、救いの喜びと神様を愛する事です。彼女はその愛で満たされました。

この愛は、イエス様を信じるすべての人々の為です。イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」信仰によって、自分の多くの罪が赦されていると分かります。小さな罪も、大きな罪も、何かをしたから罪になるものがあれば、何かしなかったので罪になる物もあります、又、自分がよくしっている罪も、全然意識しない罪もあります。これらのすべての罪が赦されています。赦されなければ、私達は悪魔の手に渡されます。もし私達の罪が小さなつまらないものばかりでしたら、イエス様はこの地上に来られて十字架上で死ぬ必要がありませんでした。私達の罪、私達一人一人の罪が大きいので、私達を赦す為に、イエス様は十字架上で死ななければなりませんでした。イエス様は私達を愛して下さいましたので、赦して下さいました。私達が赦されていますので、自分の人生の中でその神の愛を、愛の業によって現します。

イエス様は本当に預言者でしたので、女の人の心をもシモンの心も、そして私達の心をも知ります。女の人は涙を流してイエス様の足をぬらしましたが、ゲッセマネの園でイエス様は涙を流しました。彼の接吻された足が釘で刺されました。三日目に甦りまして、弟子達に宣教の命令を与えました、マタイ28:19、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」イエス様は私達の足を洗いませんが、バプテスマの洗いで、私達の罪を洗い去って、永遠の命を下さいます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会