2015322

レントの説教シーリズ:受難週の出来事、

第5回目、聖木曜日マルコ14:12~26

「最後の晩餐、主の食卓、聖算式」

 

14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。

14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。

14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』

14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」

14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。

14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」

14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。

14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。

14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」

14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。

14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 

設定のことば

私達の主イエス・キリストは 苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子達に 与えて言われました。「取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私のからだ である。私の記念のため、これを行ないなさい」。

食事ののち、杯をも同じようにして言われました。「取って飲みなさい。これは 罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す 私の血  における 新しい契約である。私の記念のため、これを行ないなさい」。

 

[The first paragraph of the English sermon is not used in Japanese.]

ヨハネによる福音書では、最後の晩餐は13章から17章までです。その時、イエス様は「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」又、新しい掟を与えました、「13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」又、その時、聖霊を送るように約束しまして、弟子達に色々教えたり、弟子達の為に祈ったり、又、すべての信者達の為に祈ったりして下さいました。ヨハネの福音書では、最後の晩餐は長くて5章もかかりますが、マルコの福音書では、たったの10節ぐらいです。マルコの福音書で大切なのは、聖餐式の設定です。

最後の晩餐は、正式な過ぎ越しの祭りの二日前でした。イエス様が知っていたのは、ご自分が十字架上で死んで、正式な過ぎ越しの祭りの後で、復活するので、早めに弟子達と共にその祭りを祝いたいと思いました。過ぎ越しの祭りとは、モーセの時代に、神様はイスラエル人を、エジプトでの奴隷状態から救い出して下さった事を記念します。エジプトから出る夜、イスラエル人達は自分の家の入り口の上と横に、犠牲の羊の血を塗りました。それで、死の天使が彼らの家の門に来る時、その血を見て、その家に入らないで、その家を過ぎ越していく、しかし、エジプト人の最初に生まれた子供を殺しました。それで、過ぎ越しの祭りは救いのお祝いでした。主なる神様は彼らの神であり、彼らは神様の民である事を覚えました。神様が御自分の民と交わした契約の約束を覚えました。

ユダヤ人の過ぎ越しの食事のメニューで、大切な物は犠牲の子羊、苦い菜っ葉、そして種無しのパンです。イエス様の最後の晩餐で面白い事の一つは、子羊について何も書かれていません。神学的に言うと、イエス様ご自身が世の罪を取り除く神様の子羊です。次の日になりますと、イエス様が十字架上で犠牲の羊にされます。そして、彼の尊い血がその十字架から流れます。

イエス様は言われました、「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」契約とは約束です。イエス様が約束するのは、御自分の血によって、多くの人々が救われる事です。そして、その救いは、その契約と結ばれる人の為です。その人は、自分の罪が十字架上で流された、イエス様の血の犠牲によって、赦されていると信じる人です。

イエス様は言われました、「これは私の体である」、「私の血である」と。即ち、イエス様は全部を与えて下さいました。体も血も100%私達の為でした。私達に御自分の命を下さいました。ですから、彼の十字架上の死が私達に救いを与える事が出来ます。

 

では、多くの人々が疑うのは、どうしてパンが肉になるでしょうか、どうしてぶどう酒が血になる事です。物質的に不可能のようです。聖餐式の時、私達の教会の祭壇のパンとぶどう酒が消えません。味はパンとぶどう酒です。論理に合わないけれど神様の業です。もし神様は神でしたら、もしキリストが神でしたら、可能です。もしイエス・キリスト、三位一体の神様の第2の人格、全能の神様が、ベツレヘムの赤ちゃんの形になる事が出来ましたら、パンとぶどう酒の形になる事が出来ます。もし聖霊は鳩のように来たり、又ペンテコステに強い風や火の炎の形で、来たりする事が出来ましたら、イエス様はパンとぶどう酒の形として私達に来る事が出来ます。私達の口や舌が、パンとぶどう酒だけの味を感じますが、私達の心がイエス様の言葉を受け入れます、「これは私の体である」、「私の血である」と。

聖餐式を聖礼典にするのは、私達の信仰ではありません。この救いの食事の上に、話して述べ伝えた神の御言葉です。これは非常に大切です。神様の御言葉は私達の信仰より強いです。私達の信仰が弱い時、完全に神様の約束の言葉に頼らなければなりません。「これは私の体である」、「私の血である」、「罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す私の血(1コリント12:25)と。私の信仰が弱い時、この言葉を聞く必要があります。自分の罪の為に悩む時、自分の罪が赦されていると、はっきり現すしるしが必要です。人生に問題があって神様の愛を疑う時、イエス様の愛の深さを見る事が必要です。イエス様はあなたと私を愛しますので、昔、遠いエルサレムで十字架上で死にましたが、それだけではなくて、この教会の中にいる私達に、今日も来られます。

神様の言葉はとっても強いので、自分が罪人でしても、自分がキリストの体と血をいただきます。神様の言葉はとっても強いので、教会の牧師が罪人で、神様に対する疑いがあっても、キリストの体と血です。キリストを信じゃない人でもこの聖なる食べ物をいただいても、その人がキリストの体と血をいただきます。しかし、聖餐式はマジックではないので、罪の赦しをもらう為に、信仰が必要です。自分の罪深い人生を変えたくない人、赦しなんか必要がないと思う人、イエス様を自分の救い主として受け入れようと思わない人が、この聖礼典を受けるべきではありません。牧師は他の人の心の中を見て、その人には信仰があるかどうか分からないので、人の公の信仰告白を信頼しなければなりません。それをするのは、洗礼を受ける時や堅信式やはつばい餐の時です。まだ洗礼式や堅信式を受けていない人が、祝福を受ける為に祭壇の方に来ても良いです。

 

最後の晩餐の時、イエス様は聖餐式の礼典を設定しました。暦上の出来事でした、「苦しみを受ける前日」でした。日曜日の朝、聖餐式を行う時、イエス様の死と復活が歴史上の出来事であったと覚えて、そして今日、私達の今の歴史の時にも、再び私達の所に来られるので祝います。私達は過ぎ越しの食事全部が出来ないので、12弟子と共にする事を思い出す為に、よく種無しのパンを使います。私達クリスチャンが、イースト菌の入ったパンを使っても良いですよ。その時、復活祭をもお祝いします。イエス様が上がりましたように、パンも上がります。大きい 一斤のパンを切って、又裂いて皆に配ても良いです。この沖縄ルーテル教会で、私達は種無しパンを使います。「ウエファー」と言います。[The next line about the host is not translated because it is too hard to understand without a long explanation.] ぶどう酒の杯は「チャリス」とも言います。私達の教会はぶどうのワインを使います。イエス様がそれを使ったからです。ぶどうのジュースを使っても良いですが、りんごのジュースやコカコーラやコヒーを決して使ってはいけません。交わりの時でその物が良いですが、最後の晩餐の歴史上のイエス様の行動や、イエス様の苦しみと死を覚える為に役に立ちません。ある教会には一つの大きい杯があります。そして、皆がそこから飲みます。ある教会は礼拝の前に、沢山の小さいコップにぶどう酒を入れておきます。私達の教会のやり方が好きです。人々が手に持っている小さいコップに、大きいなチャリスから注ぎ入れます。皆がその同じ大きいコップから分かち合うので、私達皆が信仰によって、私達の救い主であるイエス・キリストに、結ばれている事を表します。

来週見るのは、その罪の赦しを実行したイエス様の苦しみと死です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会

 

 

 

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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