聖ルカと針

2015年10月18日
聖霊降臨後第21主日
福音書記者ルカの日


マルコ 10:23〜31
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

今朝、教会に入った時、祭壇の布の色又、牧師のストールの色が赤と見る時、驚いたかもしれません。赤とは、聖霊がペンテコステの日に、弟子達の上に火の炎の形で来られたので、赤は聖霊を表す色です。そして赤は、イエス・キリストの為に自分の命の血を流された殉教者達の血の色です。今日は10月18日で、教会のカレンダーでは聖ルカの日です。ルカは二つの新約聖書の本を書きました、即ち、ルカによる福音書と使徒言行緑です。ルカが殉教者として死んだかどうか、私達にはよく分かりませんが、この日が赤でふさわしいのは、ルカが聖霊の働きによってその新約聖書の二つの本を書いたからです。その二つの本は綺麗に、雄弁(ゆうべん)に書かれていますので、読み易いですし、読んで面白いです。

聖ルカは聖パウロの友達でした。パウロと共に働いて、使徒言行緑では聖パウロと共に伝道旅行に行ったことが記録されています。手紙の中で、聖パウロは3回もルカの事を書きました。そして、コロサイ4:14節に教えられているのは、ルカは医者である事です。それで、ルカは教育を受けた人で、彼の綺麗な書き方に表されています。医者である事は、一つの福音書の箇所に現れています。ルカ18:25、マタイ19:24とマルコ10:25は同じイエス様の言葉です。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」マタイとマルコには、「針」と言うギリシャ語の言葉は、普通の縫い物に使う針[raphis rafis]です。しかしルカの福音書には、その「針」と言う言葉は、医者が手術に使う針[belone belonh]です。ギリシャ語のちょっと違う言葉ですが、イエス様の意味は同じです。しかし、イエス・キリストの福音を述べ伝える時、聖霊はその人の背景を利用する事を現します。

それで、今日の福音書の日課に移ります。イエス様は言われました、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」それを言われる前の箇所では、ある金持ちはイエス様について行きたいと思いました。マルコ10:21-22です。

「10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

その人が思ったのは、天国に行くよりも、自分の持ち物の富の方が大切である事です。 多くの金持ちは、自分の富は神様からの特別な祝福のしるし、即ち、救われているしるしのように考えます。しかし、人が自分の富に信頼してはいけないとイエス様は教えます。それで言われました、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」イエス様の弟子達は金持ちではないので、神様からの祝福のしるしがないので、自分達が救われているかどうかと思いました。それで弟子達は言いました、「それでは、だれが救われるのだろうか」と。

すごい金持ち、億万長者(おくまんちょうじゃ)ミリオニアーがいます。その中には良い人がいましたら、ひどい、いばっている、罪人もいます。イエス様はその人々の事について話しましたが、イエス様は私達の事についても話しました。この世の多くの貧乏な人の目で見ると、私達は金持ちです。足には靴があり、頭の上に屋根があるからです。私達には、お金や、持ち物や、財産や、家族や、大切な友達がいます。それが全部は神様からの祝福です。しかし、そのものに信頼を置きますと、そのものが大きなラクダのように、神の国に入れないように邪魔します。 1

0:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

しかし、人間のプライドがありますので、不可能でしても、私達はその穴を通るように努力します。ラクダの全部が通るように、神様の助けなしに入れる方法を探します。それをする2つの方法をやって見ます。それは、針の目を大きくする方法とラクダを小さくする方法です。例えば、エルサレムの城壁のある狭い門の話です。ラクダの背にある荷物を一度下ろせば、ぎりぎりに、その狭い門を通る事が出来るそうです。この解釈でしたら、私達が天国に入る為に、先ず、私達の荷物、重荷、罪、財産などのすべてを捨てる事です。しかし、この箇所で、イエス様はすべてを捨てる事を意味しません。本当の縫い物に使う針と本当のでっかい駱駝です。即ち、イエス様が言われるのは、誰でもの為に不可能です、なぜならば、すべてを捨てても、私達がまだまだ大き過ぎるからです。

救いとは神様の働きです。「神は何でもできるから」です。私達は信仰によって救われています、そして、信仰は私達がする事ではなくて、信仰は聖霊からの贈りものですので、自分が信じる事でプライドを持つ事が出来ません。何故ならば、信仰が教えるのは、何でもかんでも出来る神様が恵みによって私達を救って下さった事です。神様は不可能な事をする事が出来ます、たとえば:馬小屋で生まれる事、自分の上に世の罪を取る事、十字架上で死ぬ事、そして、針の穴のようなお墓のドアを甦って通る事です。

あなたは、針の穴のどちらの側にいますか。もう既にそれを通って天国にいますか、それとも、まだまだこの地上にいるでしょうか。もしかしたら、私達は糸のようでしょうか。半分はもう通りましたが、後まで引っ張る地上の世俗的なものがあるでしょう。私達には多くの重荷と心配と恐れと罪があります。しかし同時にイエス様の愛が、私達が通れるように引っ張って下さいます。洗礼を受けた時の神様の約束があります。それは、イエス様は私達の事を決してあきらめない事です。そして、神様はいつも御自分の約束を守ります。何故ならば、神は何でもできるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト