互いに愛し合いなさい

2016年4月24日


ヨハネ13:31-35  
3:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

使徒言行緑 11:1–18
11:9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。

今日の福音書の日課で、イエス様はこのように言われました、
「ヨハネ13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子である事を、皆が知るようになる。」
もう一つの掟になりました。十だけではありません。旧約聖書の全ての他の掟と律法だけではありません。又、律法を現す二つの戒め、[神を愛しなさい、隣人を愛しなさい]だけではありません。「金の律法」だけでもありません。イエス様はもう一つの掟を加えます、「互いに愛し合いなさい」と。そして、後で分かるように、この新しい掟は、一番きびしいものです。

旧約聖書の中には613個の律法があります。ユダヤ人の人生のほとんど全てを定義します。何を食べるか、何を身につけるか、どうやって活きるか、どうやって礼拝するかです。この律法の目的の一つとは、ユダヤ人を特別な民に作る為です。彼らの生活振りが他の人と違いましたら、他の人が彼らの生き方を見ると、彼らがユダヤ人であると分かる為です。現代も、ユダヤ人には食べ物についての掟がありますので、豚肉を食べないので、他の人はその人がユダヤ人であると分かります。ある所には、保守(ほしゅ)的なユダヤ人は黒い服と帽子を身につけて、髪の毛も特別な方法でします。彼らはユダヤ人のように見えます。すぐ分かります。イエス様の言葉を借りて、“それによってすれば、あなたがたがユダヤ人である事を、皆が知るようになる”と。ユダヤ人だけではなくて、ほかの国や民族には特別な習慣や服や振舞いが有りますので、その人は何でるあるか、誰であるかすぐ分かります。例えば、イスラム教の女の人がブルカを身につけますと、すぐ分かります。又、旅をする時、誰が地元の人か、誰が旅人であるかすぐ分かります。

クリスチャンでしたら、どのように見えるでしょうか。私達には特別な洋服に対する掟がありません。今日の聖書の第一日課では、聖ペテロは神様からの幻を見ます。私達が神様の造られた全ての物を食べても良いと教えました。「使徒言行緑 11: 9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、天から声が返って来ました。」誰かがキリストの弟子であるかどうか、どのように見分けるでしょうか。ある人は十字架のネックレスを身につけます。聖書を持って日曜日の教会に行く事を見る時もあります。ある人の話し方は宗教的な言葉を使います。あるクリスチャンはタバコやお酒を飲まないし、ダンスなどをしません。しかし、クリスチャンが完全な聖なる生活を送らない罪人であるので、見分ける事が難しい時もあります。しかし、イエス様はクリスチャンがその振舞いで分かると言われました。それは、お互いに愛しあうからです。

それは良いですね!教会は一つの大きい愛の祭りです!幸せと友情、親切さと助け合い、他の人を受け入れる事、赦し、偲び、完全なアガペの愛です。幸せな愛が満ちている家庭と友達。そのようにやってみます、希望して、そのようになるように祈ります。

イエス様は“私があなたがたに親切にしたように、互いに親切にし合いなさい”と言われませんでした。親切と愛は違います。親切とは振舞いで、愛は人間関係です。私達が誰かと愛で結ばれているので、ある時親切で、ある時きびしく、ある時怒ります。何故ならば、私達はその人の事に関心を持っているからです。その人が自分にとって大切であるからです。同じ理由で、私達に対して、神様はある時親切で、ある時きびしく、ある時怒ります。神様は私達に関心を持っているからです。ご自分にとって、私達は大切なものです。それは、神様が私達を愛するからです。私達は神様にとっては尊いものです。ですから、同じ理由で、私達の愛する人が私達にとって尊いものです。

又、「自分自身のように隣人を愛しなさい」と言われましたが、イエス様が言われなかったのは、“自分自身のように隣人を愛せよ、自分自身を愛するようにお互いに愛し合いなさい”と。最後の晩餐の終わりごろにイエス様がその新しい掟をこのようにもう一度言われました。ヨハネ15:12,13、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。 友の為に自分の命を捨てる事、これ以上に大きな愛はない。」愛の測りが分かりますか。人にやさしくする事ではありません。特別な友情です。どのようにしてイエス様が私達を愛してくださったでしょうか。先ず、御自分が永遠の全能の神様でありながら、この世に来られて、ベツレヘムで赤ちゃんとしてお生まれになりました。素晴らしい言葉と業と癒しによって御自分の愛を現しました。愛する世の罪をご自分の上に取って、そして、この世の為に死んで甦りました。ご自分の愛された人々をご自分の友と言われます。何故ならば、特別な結び、縁、絆があるからです。そして、その友の為に、助ける為に、救う為に、苦しみを受けて死にました。それこそは一番大きい愛です、友の為に自分の命を捨てる事です。イエス様が言われるのは、それは私達のお互いの愛の測りです。このようにしてお互いに愛し合いましたら、世の人々が私達を見ます。私達がイエス様の弟子であると分かります。

このような愛が私達に義務を与えます ―― 新しい掟と呼ばれています。もし愛されましたら、その愛を返さなければなりません。自己中心でもありません。人には、愛が何であるかを学ばなければなりません。教会で習ったものを家族の中で練習します。人には、愛することを学ばなければなりません。 それで、愛する事を育てます。聖霊は私達の教会の中、家庭の中、友達の中で働きます。私達は神様の憐れみ、恵み、赦しと愛を受けます。それで、同じように他の人を愛する力があります。

フリズビーやキャッチボールをやった事が有るでしょうか。そのフリズビーやボールを友達に投げて、友達はそれをキャッチして、あなたに投げ返して、そして、あなたはそれをキャッチして、もう一度ボールを投げて返します。長くてミスしないでしますと、楽しくなります。愛は同じです。しかし、時々、キャッチをミスします。その時、やぶの中に入ってしまったボールを捜して、見つけたら、友達に投げます。愛も同じです。まちがう時があります。しかし、諦めないのは、イエス様があきらめないからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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