学んで、祈って、主の祈りによって生きる

2016年7月24日


ルカ11:1-13

天にましますわれらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日ごとのかてを、きょうも与えたまえ、われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。

今日の福音書で、イエス様は言われている「主の祈り」を私達に教えます。すべての祈りの模範で、よく見て考えましょう。ゆっくり読みたいと思います。一つづつの句を読んで、マルチン・ルターの小教理問答書から、そして、自分のコメントを言います。自分個人的に主の祈りを祈る時、私の心や思いに有る理解を話したいと思います。


マルティン・ルター「小教理問答書」より

よびかけ

 天におられるわたしたちの父よ

問 これはどんな意味ですか?

答 この言葉によって、神が私たちのまことの父であり、私たちは神のまことの子どもであることを信じ、ちょうど愛する子どもがその愛する父に向かって求めるように、絶対的な信頼と安心をもって神に向かって求めるように、(イエスさまは)すすめています。

「天にましますわれらの父よ。」この言葉で、私達が何方に向かって祈るかを教えます。私達の多くの祈りの最初の言葉は、「全能の神様」のような言葉です。これは良いです。神様が何でもかんでも出来るので、私達の願いを聞いて、答える事が出来る事を思い起こさせます。しかし同時に、「全能の神様」のような言葉は、神様を遠く離れている天国に、神様を置いてしまいます。しかし、「父」と言う言葉は神様が近くにします。私達の問題をすぐ助けられる感じがします。私の愛する父として、私の為に何が一番良いかが分かります。神様は私の父で、神様の子はイエス・キリストです。そしてイエス様は私の兄弟、私の友達です。洗礼を受ける時、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けました。それで、神様は本当に私の祈りを聞いて下さいまして、本当に私を守って下さいます。私だけではなくて、「我等の父」と祈るすべてのほかの人々に対してもそうです。この祈りはたまに「家族の祈り」と呼ばれているのは、私達はキリストに有るすべての家族の為に祈るからです。それで、有る時、どのように有る人の為に祈れば良いか分からない時、この祈りを祈りながらこのように心の中に思います。「彼に日ごとの糧を今日もお与えください。」「彼女を誘惑におちいらせずに。」私達皆を悪より救い出したまえ。」と。アーメン。

第一の願い

 み名が聖とされますように

問 これはどんな意味ですか?

答 神の名はもちろん(私たちが祈らなくても)それ自身まことに聖なるものですが、私たちのこの祈りによって、神の名が私たちの間でも聖なるものであるようにと祈るのです。

問 それはどのようにしてなされるのですか?

答 神の御言葉が正しく、純粋に教えられ、そして私たちが神の子として、御言葉に従ってきよく生活するときに実現します。天におられる愛する父、このために私たちを助けて下さい。しかし、神の言葉の教えるところと違うことを教えたり、怒ったりする人は、私たちの間で神のみ名を汚すのです。天の父よ、このことから私たちをお守り下さい。

「願わくはみ名をあがめさせたまえ。」聖なるものを尊敬します。新しい翻訳はこのように言います、「み名が聖とされますように。」聖餐式の時、このように歌います:「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。」私は「願わくはみ名をあがめさせたまえ」と祈る時、私の思いと心の中でこのように言います:「主を褒めたたえよ、ハレルヤ、主の御名によって来られる方をたたえよ、ホサナ!」と。又、神様の名前は御自分の評判のようです。それで、私の生活や振る舞いの中に神様の家族の名前に恥をかかすものがないように祈ります。かえって、私の生活と振る舞いによって、その聖なる名前の栄光と誉れを告白するように祈ります。このように祈るのは、私個人の為ですし、この沖縄ルーテル教会の為ですし、全世界のキリスト教の為にもそうです。即ち、スキャンダルや教会の中の間違っている教えの為に、世の人々が教会や教会の主であるキリストを憎んだり、信じなくならないように祈ります。私達皆が、良いクリスチャンとして、天のお父さんの良い子供になるように祈ります。

第二の願い

 み国が来ますように

問 これはどんな意味ですか?

答 たしかに神の国は、私たちが祈りがなくても、自らやってくるものです。しかし、私たちはこの祈りにおいて、み国が私たちのところにも来るようにと祈るのです。

問 それはどのようにしてなされるのですか?

答 それは天の父が私たちに聖霊を与えてくださり、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰深い生活をするときに実現します。

「み国を来らせたまえ。」これは伝道の為の祈りです。教会のミッションとは、全世界に神様の国を広げる事です。神様が私達の教会の働きを祝福するように祈ります。私達の心と私達の人生の王様と指導者になるように祈ります。私達の知る人の心の中に来られるように、その人も神様の国の中に住むように祈ります。同時に、この祈りは、世の最後の日に、キリストがすべての王様の力を持って来られるように祈ります。ニケヤ信条はこの信仰を表します。「又生ける人と死にたる人とをさばくために、栄光を持って再び来たりたまわん。その国は終わることなし。」この世界の状態を見るたびに、戦争と貧困、圧迫と天災と病気と淋しさを見るたびに、その最後の日がはやく来るように祈ります。又、主は今こそ、力を持ってこの世界に来られて、この世を指導して正しくするように祈ります。

主の祈りのこの部分を祈るのが、長い時間かかる時も有ります。何故ならば、何人の人の事を思うからです。その人はイエス様の言葉を聞いて信じる必要があるからです。そのイエス様の言葉とは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。又、この教会の伝道の活動の為に祈ります。ある時、病院で、病気で、痛みがひどい、死にかけている人の為にこの主の祈りを祈る時、死ぬ事によって、人が天国の永遠の御国に入る確信を与えます。私達の天の父と王を信頼する祈りです。

第三の願い

 み心が天に行われるとおり地にも行われますように。

問 これはどんな意味ですか?

答 神のよき恵み深いみ心は、私たちの祈りがなくても確かに実現します。しかし、私たちはこの祈りにおいて、み心が私たちの間においてもまた実現するようにと祈るのです。

問 それはどのようにしてなされるのですか。

答 それは、悪魔やこの世の思いや私たちの肉の意思があって、私たちにみ国が来ることを妨げようとする、すべての悪いたくらみや意図を神が打ち砕き、防いで、反対に御言葉と信仰のうちに、終わりまで私たちを強め、堅く守られるときに実現します。これこそ、神のよき恵みある御心です。

「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」勿論、私達の全能の父なる神様は、地にも天にも好きな事、何でもお出来になります。私の祈りとは、自分が神様の心を知るように、自分の人生の中で神様の意思を知るように祈ります。有る時、自分の為にも、家族の為にも、教会の為にも、神様の御計画をぜんぜん知りません。それで、この祈りは、神様が私達にその御計画を教えるように、自分達の働きをプランする事が出来る為です。イエス様は神様の御計画を知りました。ゲッセマネの園で、イエス様はこのように祈りました: 「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」父なる神様の御心に従って、イエス様は十字架に導かれていました。そこで、世の罪を赦す為に死んで下さいました。即ち、神様の御心に従いたくない人々の罪でさえも赦す為に死んで下さいました。イエス様の祈りは御自分を犠牲へとなりました。同じように、この祈りは、私の犠牲にもなるでしょうか。 ゲッセマネの園で祈る時、 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られて、汗が血の滴るように地面に落ちました、ルカ22:44 。同じように、私達の祈りの中に、いつも少しの恐れおののきがあるべきでしょう(フィリピ2:12)。自分の人生の為に神様の御心は何であるか、本当に考えましたら、そのプランに従うのが怖いと思うかも知れません。預言者ヨナを思い出してください。しかし、最後まで、主は彼と共にいました。それで、主の祈りは、勇気と力を与える祈りです。いつまでも私達の父なる神様に忠実にする為です。同じように、洗礼を受けた時、神様は、いつまでも私達に忠実にするように約束したからです。

第四の願い

 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

問 これはどんな意味ですか?

答 神は、たしかに私たちの祈りがなくても、すべての悪人にさえも、毎日の食べ物を与えてくださいます。しかし、私たちはこの祈りにおいて、神が私たちにこのことを知らせて下さり、毎日の食べ物を感謝の心で受けるように導かれることを祈るのです。

問 毎日の食べ物とは何ですか?

答 それは肉体の栄養や、生活になくてはならないものです。たとえば食べ物と飲み物、着物と履き物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深いつれ合い、信仰深い子ども、信仰深い使用人、そしてまた信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい天候、平和、健康、教育、名誉、よき友人、信頼できる隣人などです。

「われらの日ごとの糧を、きょうも与えたまえ。」小教理問答書の中で、マルチン・ルターは、「日ごとの糧」とは、生きる為に私達に必要な物全部であると言います。22個ぐらいの物をリストアップしました。例えば、「食べ物と飲み物、着物と履き物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深いつれ合い、信仰深い子ども、信仰深い使用人、そしてまた信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい天候、平和、健康、教育、名誉、よき友人、信頼できる隣人などです。」そして、私達が祈る時、自分が今日必要な物の為に考えてそれに加えて祈ります。例えば、新しい車、生活の安定や安心、学校の良い成績、体の痛みがなくなるように、又、牧師として、私が祈るのは、良い説教の為の霊感です。 たまに、言葉をちょっと変えます。「父なる神様、今日私に必要な糧を下さったので、感謝します」と。そして、忘れないように、自分だけではなくて、「我らの日ごとの糧」です。それで、他の人の必要な物、彼らの健康と幸せの為にも祈ります:私達の家族、友達、国、今朝の教会です。

牧師として、他の人を指導して主の祈りを祈る時、自分の前で、言葉が書かれていて欲しいです。言葉を暗記して覚えられますが、祈る時、私の思いがあちこちに行くからです。日ごとの糧のショッピング・リストの一つ一つの事を考える時です。食べ物が足りない人の事を考えたら、がんの治療の発見の為に祈る時、教会の持ち寄りを考える時です。… 私の頭が口の言葉より遅いので、今、祈りの次の言葉を見つけられません。「日ごとの糧」と言う言葉は、何億の物も含むからです!それで、二つか三つの事を考えて、残りの物を神様の御手にゆだねて考えます:「父なる神様、今日私皆に必要な糧を下さったので、感謝します。アーメン。」

第五の願い

 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも(私たちに罪を犯した)人をゆるします。

問 これはどんな意味ですか?

答 私たちはこの祈りにおいて、天の父が私たちの罪に目を留められないように、またこの罪において私たちの祈りを拒まれないように祈るのです。というのは、私たち自身は、祈るといっても、それにふさわしい何の値打ちもなく、その功績もないからです。それどころか私たちは日々多くの罪を犯し、ただその罰を受けるにふさわしいものです。ですから、神が恵みによって、すべてのものを与えようとなさったのです。したがって私たちもまた、私たちに罪を犯す者を心からゆるし、喜んで親切を尽くしたいのです。

「われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。」この祈りは危ないです。その意味とは、私が罪人であるので、他の人を完全に赦さないので、神様が私を完全に赦さなくてもいい事です。それが痛いです!それで、ルターが勧めるように、思いの中で、言葉をこのように変えます:「父よ、あなたの御子が私のすべての罪を赦す為に十字架上で死んで下さいましたので、同じように、私が自分に悪い事をした人々を完全に赦す事が出来るように恵みを与え、又、その人に良い事をする事が出来るように恵みをお与え下さい。」又、家族や教会として私達は祈って、「我らに罪を犯すものを、我らがゆるすごとく」と言いますと、それは、この祈りを祈る教会や家族の人がお互いに赦し合う事です。それで、古い恨みや喧嘩を赦します。お互いの問題や違う点を乗り越えられるように、神様の助けを頼みます。聖霊が私達の交わりを導くように頼みます。

又、同時に、罪の告白と罪の赦しを受ける事です。これは、ただキリスト信者になる事です。十字架上のキリストの働きが、世界中のすべての信者達のすべての罪を赦す事を信じます。クリスチャンとして、私達は他の人を赦したいと思います。有る人を赦したくないかも知れません。有る人には赦してあげる価値が無いかも知れませんが、私達クリスチャンに分かるように、自分達こそ、神様の御前に、赦しをもらう価値がないと分かります。赦しは壁を壊します。それは「愛する」事です。赦しは難しいです。簡単なものでしたら、罪を赦す為に、イエス様は十字架上で死ななくても良いでした。赦しが難しいので、次の二つの主の祈りの言葉が必要です。

第六の願い  

私たちを誘惑におちいらせず

問 これはどんな意味ですか?

答 神はどんな人をも試みに会わせられません。しかし私たちはこの祈りにおいて、神が私たちを助け守って下さり、悪魔や、この世や、また私たちの肉欲が、私たちを欺いたり、または間違った信仰や絶望、またはその他の大きな咎や罪悪に陥らせないように祈るのです。そしてまた、たとえ私たちがそれらのものに攻められても、最後には私たちが打ち勝って、勝利を得ることができるように祈るのです。

「われらを試みに会わせず。」罪を犯させようとする誘惑が私達を囲みます。罪を犯さないように、誘惑に対する力があるように祈ります。しかし、それより良い事は、最初から、誘惑が来ないように、信仰のテストがないように祈ります。自分が弱いから、テストが全然ないように祈ります。悪魔や、この世や、また私たちの肉欲が、私達の信仰を攻撃しないように祈ります。自分の為に、家族の為に、教会の為にも祈ります。そして、テストがある時、誘惑の悪に抵抗(ていこう)する為に、それを乗り越えるように、聖霊が力と勇気と確信を与えるように祈ります。

しかし、自分の弱さや以前の失敗を知るので、罪に陥る時、主の祈りの次の言葉はとっても大切です。

第七の願い

 悪からお救い下さい。

問 これはどんな意味ですか?

答 すべてをひとまとめにして、私たちはこの祈りにおいて、天の父が体と魂、財産と名誉に関わるすべての悪から私たちを救ってくださり、そしてついには私たちの臨終に際して、祝福された終わりを与え、恵みをもって悲しみ多いこの世から、天へと迎え入れてくださるように祈るのです。

「悪より救い出したまえ。」イエス様は私達の性質がよく分かりました。誘惑が来る時、私達が誘惑に負けて罪を犯す事です。それで誘惑に陥る時、悪が来ないように祈ります。罪を犯しても、悪より守られるように祈ります。ルターは悪の種類を幾つかをリストアップしました。例えば、間違った信仰や絶望、恥、体の病気、持ち物や財産に対する害、評判に対する害、又、悪魔と地獄です。今まで、神様が私達を大きな悪から救い出して下さいましたので感謝します。「そしてついには私たちの臨終(りんじゅう)に際して、祝福された終わりを与え、恵みをもって悲しみ多いこの世から、天へと迎え入れてくださるように祈るのです。」私達が死ぬ時、天国に行くと言う確信の祈りです。しかし天国に行く前に、自分達や愛する人々が、悪より救い出させるように、悪が来ないように祈ります。来ましたら、私達は死と危険と病気と争いと喧嘩などのすべての人生の悪い物から救われるように祈ります。

結び

 国と力と栄光は、あなたのものです。アーメン

問 これはどんな意味ですか?

答 これらの願いが、天の父に喜ばれ、聞き入れられることを私たちは確信します。なぜなら、神ご自身が、このように祈りなさいと、私たちに命じられ、その上、聞き入れてくださると私たちに約束してくださったからです。アーメン、アーメンということは、まことに、まことにそうなるのですという意味です。

「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」賛美です。神様には永遠の力と栄光と国があるので、私達の祈りをかなえる事が出来るので、確信を持って、喜びを持って祈ります。

アーメン。アーメン。はい、はい、その通りになりますように!祈りの終わりだけではなくて、父なる神様との毎日の祈りの歩みの始まりと継続です。 アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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