生きた水

受難節第3主日
2008年2月24日
ヨハネ4:5−42

「永遠の命に至る水」とは、イエス様がそのサマリヤの女の人と話した時のテーマでした。「イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方(ほう)からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」」女は、イエス様がマジックのような水について話していると思ったでしょう。それを飲めば再び、のどが渇かない水でした。毎日、井戸までくみに行かなくてもいいと思いました。自分の家の水道でもいいと思いました。イエス様が自分をいじめていると思いましたので、仕返しに、イエス様をいじめようと思ったみたいですが、それを止めたのは、イエス様が自分の人生の個人的な事を知る預言者であると分かった時です。しかし、イエス様はその女をいじめないで、むしろ福音の真理を語っていました。二人は井戸のそばにいるので、福音の話をよく理解する為に、自然に興味がわいてくるトピックをもちいて話しました、即ち、「命の水」です。

世界中の多くの家に水道がありません。昔のパレスチナと同じです。自分の家から村の井戸まで、遠くまで歩く事もあります。聖書の話しと同じでしたら、皆は自分のバケツを持って行きます。そのバケツには、長いひもがつけてあります。これで深い井戸の中から水を汲みます。そして、その水を家まで運んで行きます。家の中に水道が有れば楽でしょう。水道は、決して空っぽにならないバケツのようでしょう。重いバケツを運ぶ事は大変な苦労で、人ののどを乾かすでしょう。私達は沖縄の暑い夏が分かるので、のどの渇きが分かります。再び決して渇かないように、イエス様がその水を私達に与えたら楽でしょう。私達が困っている時に、いつもイエス様に助けてもらいたいでしょう。私達に必要な物を買う為に、お金を与えて欲しいと思います。私達のすべての渇き、すべての欲望を満たして欲しいと思います。そのような「生きた水」が欲しい、それはあふれる銀行の口座のようです。しかし、イエス様はそのような事について話しませんでした。

イエス様は言われました。 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」イエス様の水は永遠の命を与えます。一時的に渇きを癒す事だけではありません。便利な奇跡ではなくて、救いです。この永遠の命に至る水は何でしょうか。そして、どのようにしてイエス様がそれを私達に下さるでしょうか。理解する二つの方法があります。そして、このヨハネによる福音書の中によくあるように、イエス様は同時に両方の意味を考えたでしょう。

先ず、その命の水はイエス様の啓示や教えです。

神の御言葉は命の水です。永遠の命に至る水です。

あなたは、神の御言葉の為に渇いた事がありますか。私が最初に日本に来た時、日本語がぜんぜん分かりませんでした。毎週日曜日に日本語のルーテル教会に通わなければなりませんでした。しばらくしてから、本当に福音を聞きたいと思いましたので、分からない日本語の説教の時間に福音の御言葉を教える聖書のテキストブックや神学的な本を読みました。英語の賛美歌と同じ日本語の賛美歌が多いので、楽しいでした。式文を楽しみにしました:たとえ言葉が違っても、その意味が同じで、そしてその意味が心から分かっていたからです。しかし、自分の罪が燃えている火のように感じる時、罪の告白の言葉を祈って、私の心が神様の赦しの約束を聞く為に渇き、信仰によってその赦しと恵みを受け入れるまで落ち着きませんでした。

イエス様は渇く事がよく分かりました。サマリヤの井戸の時もそうですし、40日間荒れ野にいる時もそうですし、十字架上にいる時もそうです。「私は渇く」と言われました。全世界の罪と苦しみによって彼の上に置かれた渇きです。冷たい水でもこの渇きを癒す事が出来ませんでした。十字架上で流されたキリストの血のみがそれを出来ました。赦しと恵みの為の犠牲は、永遠の命に至る誠の命の水です。

「命の水」は神様の救いの福音の御言葉ですし、又、イエス様が与える聖霊です。ヨハネ7:37-39を聞いてください。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

ヨハネ6:63で言われました、「命を与えるのは“霊”である。」

「生ける水」の意味を、御言葉と聖霊の間に選ばなくてもいいでしょう:何故ならば、聖霊は神様の御言葉を啓示してその福音を私達の心に語るからです。これは、「永遠の命に至る水」です。

又、洗礼のシンボルもあるでしょう。しかし、バプテスマの水を飲みません、赦しと新しい命、溺れ死ぬ事と復活です。しかし、バプテスマは本当に「永遠の命に至る水」です。言葉の焦点がちょっとはずれますが、聖パウロは、第1コリント12:13でこのように書きました、「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

井戸のそばにいた女の人は、その日に命の水をいただきました。私達は彼女の信仰の成長を見る事が出来ます。先ず、イエス様を知らない人で、次に、彼を預言者と呼び、そして最後に、キリストである救い主として信仰を告白しました。その生きている信仰が湧き出す事のように、町の人々に言いました、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」そして、その町の人々もその信仰の命の水を飲んで、信仰を告白しました、彼らは女に言いました、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

皆さん、スポーツドリンクを飲む前に、自分の欲望と渇望(かつぼう)を癒す前に、世を征服しに出掛ける前に、まず神様の御言葉によって、自分の霊的な渇きを癒して下さい。聖霊はあなたに永遠の命に至る水を下さいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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