「なぜ百合の花が悩まないか」


2016年8月7日




福 音 書 ルカ12:22-34 12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。 12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。 12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

イエス様は言われました、「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾(きかざ)ってはいなかった。」それで、私が考えてみたのは、教会の庭の百合でした。私はそれを植えませんでした。沖縄に来る前に、16年も前にありました。それを植えた事もないし、肥料も水も与えないし、何もしませんでした。しかし、毎年の春 芽を出して、綺麗に咲いて、夏になると枯れて、冬の時に次の春を待ちます。野性の花のように自然です。その花の世話をするのは神様です。ユリの花には、心配事がない、私も百合の花について心配しません。イエス様が言われるのは、それと同じように、神様が私達の世話をして下さいます。神様は私達の園丁だけではなくて、神様が私達の父であるので、私達には何が必要か分かるとイエス様は言われました。神様は百合の花を着飾りますので、私達にも必要な物を下さいます。

イエス様は言われました、「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」それで、私が考えてみたのは、この近所にいる鳥の事です。私はそれに餌を与えません:神様はその世話をして下さいます。イエス様が言われるのは、私達が鳥よりはるかに大切であるので、神様が私達をも大事にする事です。神様は鳥に餌を与えるので、私達の必要な物も備えます。

イエス様は言われました、「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」それで、私が考えてみたのは、自分の命、自分の人生、何を食べるか、何を飲むかについてでした。又、考えてみたのは、命より大切なのは何でしょうかと。それは、愛でしょうか、家族か、友達か、幸せか、安全か、健康でしょうか。又、逆に考えますと、不安や心配すべきものがあるでしょうか。飲み食いし、着るものの心配が無くても、愛と友達と家と家庭と仕事があっても、平和と自由と正義と安全があっても、心配すべきものはなんでしょうか。

イエス様は言われました、「信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

言い換えますと、この世界の物より大切なのは、神の国です。神の国とは、永遠の命と救いです。ですから、完全に恐れと不安が無いです。

しかし、今私達はこの世界に住んで、危険と誘惑と罪があるので、いつも心配するものがあります。これらのものを無視する事はナイーブです。又、神様が私達の世話をしないと思う事、私達の死ぬ時にも私達を大事にしないと思う事もナイーブです。私に勇気と慰めを与える事が一つあります。ゲツセマネの園で祈るイエス様です。十字架に付けられる前の夜でした。ご自分にこれから起こる事を知りました。その苦しみと痛みを知りました。悪魔の力と直面して戦う事を知りました。そして、私達はイエス様の人間的な不安と神様を信頼する信仰をも読みます。ルカ22:39-44。

22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

イエス様は私達の恐れと心配を知って理解します。何故ならば、彼も、この世の誘惑とひどい苦しみと憎しみを経験したからです。私達はイエス様に祈る時、彼が私達を愛するので、私達の関心を感じて、私達の必要を知ります。私達はイエス様に祈る時、私達がその事を知るので、私達の恐れと不安を乗り越える事が出来ます。

信仰によって、不安が冒険に変えられています。心配する時、将来はどうなるか分かりません。冒険とは、知らない所に旅をする事です。イエス様が私達のガイド、私達の良い羊飼いである時、私達はイエス様に信頼します。不安は好奇心に変えられています。どのように神様が今の問題を解決するだろうかと思います。どのように神様が私達の人生と信仰をチャレンジするものに答えるでしょうか。イエス様には、十字架と墓の問題にありました。その答えとは、3日目の復活でした。私達の最後の問題の解決とは、世の最後の日の復活です。それで、イエス様は言われました、「32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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