見よ、神の小羊

顕現節第3主日 2014年1月19日 


福音書  ヨハネ  1:29-42a
1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。


皆さんは「メリーさんの羊」と言う歌を知っているでしょう。 メリーさんの小羊はとても可愛くて楽しく遊ぶでしょう。しかし、神様の小羊はどうでしょうか。ヨハネが「見よ、神の小羊」と言った時、どんな小羊を考えたでしょうか。イエス様がかわいくて、ふわふわした毛の子羊とは考えにくいと思います。イエス様はそうではないでしょう。かなり違うでしょう。何故ならば、ヨハネはイエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったからです。即ち、犠牲の小羊として、世の罪を赦す為に殺される羊であると言ったからです。

聖書の中の犠牲、即ち「いけにえ」について ちょっと話したいと思います。

犠牲とは何ですか。犠牲とは何かを買う事のようです。しかし、お金ではなくて命で払います。身代金 のようです。とらえられた人を自由にする為に、別のものの命を取引きます。野球の犠牲は一人のプレーヤーがアウトになりますが、もう一人の選手はホームまで走って、1点の得点を取ります。即ち、犠牲の場合には一つの命とほかの命を交換します。身代金 や贖いのようです。聖書には、罪の為に死の奴隷になった人を救い出す為に、羊や山羊の命と交換します。

最初の犠牲はどれでしょうか。聖書では最初の犠牲は、アダムとエバの為のものでした。彼らが罪を犯した後に、自分達でいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしたのですが、神様は彼らの為に、皮の衣を作って彼らに着せられたのです。その皮となった動物が最初の犠牲でした。アダムとエバの罪がその動物の死の原因でした。その動物の死は罪を覆う為と言えるでしょう。この皮の衣は、アダムとエバに対する神様の赦しと守りのしるしでした。新しい罪人に対する神様の愛のしるしでした。

最後の犠牲はどれでしょうか。最後の犠牲とは、十字架上のイエス様の犠牲でした。十字架上で、イエス様の衣は彼から取られました。隠れた罪がない、すべてが神様の前に見せられたしるしのようです。これこそは最高の犠牲でした。動物の犠牲ではなくて、人間を贖う為の一人の人間の命の犠牲でした。神の子の死でした。最後の犠牲であるのは、この犠牲が再び出来ないものですし、その結果が強くて、たとえ他の犠牲があっても、それに加える事が出来ません。それは完全なものでした。

旧約聖書の中には、どんな犠牲の種類がありますか。罪の為の犠牲も感謝の犠牲もありました。罪を赦す為の犠牲の場合、ある時その働物が完全に祭壇の上で燃やされました。しかし大体の場合には、動物の一部だけが祭壇の上で火に燃やされましした。その残りは礼拝する人々が食べて、赦されているので神様に感謝する為に、又、自分自身を神様にささげる為の献身式のようになりました。乾杯をして契約を結ぶ事のようでした。神様も礼拝者もその犠牲の食事を頂きました。神様は祭壇の上に燃やした部分を頂き、礼拝者はその残りを特別な食事として頂きました。例えば過ぎ越しの祭りの時、過ぎ越しの羊の血の一部が祭壇の所に流されて、血のもう一部が礼拝者の家の門に塗られます。その肉を自分の家まで持って行って焼いて食べました。救いのお祝いでした。

最後の晩餐でイエス様は言われました。「この杯は、あなたがたの為に流される、私の血による新しい契約である。」私達が聖餐式を行なう時、私達はその犠牲の体と血をいただき、私達はイエス様の体と血の犠牲をおぼえて、イエス・キリストによる救いをおぼえます。その時、イエス様はご自分の救いの約束を私達と再び結び、私達は自分のキリストに対する信仰の契約を再び結んで告白します。キリスト教会の礼拝堂の前の方に置く食卓を「祭壇」と呼びますが、しかしイエス様は再び いけにえの犠牲となりません。この所で、私達は祈りと献金の犠牲を神様にささげます。

バプテスマのヨハネは、イエス様を「神の小羊」と呼びました。小羊は従順でやさしいものです。そのようなやさしさは悪魔を征服する方法でしょうか。はいそうです。これは愛の犠牲であるので、これが罪と死を征服する方法です。イエス様が御自分の意思で私達の為に死んで下さった事を表します。罪人に対する神様の偉大なる愛を表します。

バプテスマのヨハネは預言者でした。神様は彼に話しました。神様がヨハネに表してくださったのは、イエス様が普通の人間ではない事です。聖霊はヨハネに、イエス様が神の小羊であると啓示されました。そしてヨハネは自分の弟子達に話しました。その言葉によって、聖霊はヨハネの2人の弟子達にも話したので、彼らはイエス様を「ラビ『先生』」と呼びました。その後、彼らはイエス様について行って、その日イエス様と共にいました。彼らは信じるようになって、イエス様がどなたであるかと分かって来ました。ヨハネの弟子の一人は後でイエス様の弟子になったシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。まず自分の兄弟シモンに会って、「私達はメシア――『油を注がれた者・キリスト』という意味――に出会った」と言った。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行ったのです。

それで、この聖書の箇所にはイエス様の為に、3つの肩書きがあります。神の小羊、ラビ、とメシア = 犠牲、先生、救い主 = 預言者、祭司、王です。この箇所は、多くのキリスト信者の信仰の道です。即ち、イエス様が罪や地獄から私達を救って下さる救い主である事を聞いて、私達の牧師や伝道の先生に従って神様の事を勉強して、そして、自分の信仰を他の人に証しして、その人をキリストの所に連れて行く事です。

「見よ、神の小羊。」時々、イエス様がふわふわした暖かい小羊のようでしたら嬉しいでしょう。時々それは必要です。淋しい時、悲しい時、力がないと思う時、慰めが欲しいと思います。イエス様はそれを私達に下さいます。イエス様は、やさしく、けんそんを持って私達の所に来られます。私達の思いわずらっている罪を赦します。聖書の物語の中で、私達はイエス様の愛について学びます。どのように、この小羊が、十字架上で私達の犠牲になったか学びます。それは、ご自分の上に私達の罪を取って、私達の代わりに犠牲として死なれました。

「見よ、神の小羊。」 キリスト信者の為に、この言葉は私達をわくわくし興奮させる言葉です!見よ!御覧なさい!キリストが来られました!見よ!私達を救う為に来られました!そして、世の最後の日に、天使が最後のラッパを吹いて、言います、「見よ、神の小羊。」『見よ、あなたの救いです!』

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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