祈り

2010年7月25日。ペンテコステ第9主日

ルカ11:910 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

どんなに大きな音をだしてドアを叩いたら、神様はその門を開けて下さるでしょうか。何回その門に戻って、たたいて、たたいて、たたかなければならないでしょうか。この質問は長い間、神様に祈って、答えを見つけることが出来ない人のことです。「神様、お願い、門を開けて下さい。」電話をかける時、相手が電話を取るように、「速く電話に出なさい。君がいると分かります。電話を取って下さい。」「神様、あなたがいるとわかります。電話を取って、門を開いて、私の祈りを聞いて下さい」と。神様は永遠の者です、始まりも終わりもない者ですが、私達はそうではないので、自分の願いを速く聞いてもらいたいと思います。そうしないといらいらします。もちろん、神様が答えますが、私達が神様の答えが嫌いなので、その答えを受け入れたくないかも知れません。私達は「主よ、一億円を下さい」と。神様は「いいえ」と答えるかも知れません。私達の為に何が良いか何が悪いか神様が御存じです。イエス様は言われました、良いお父さんのように、子供が魚を欲しい時、蛇を与えないでしょう。又、子供がさそりを求めても、さそりを与えないでしょう。子供が自分のお父さんを信頼するように、私達も天にまします父なる神様を信頼しなければなりません。

本当の問題とは、私達は門をたたいていますが、神様が答えて下さらなという事ではありません。イエス様は、神様が私たちの祈りに答えますと約束してくださいました。私達はそれを信頼します。自分の信仰の経験から、神様が答えて下さると分かります。本当の問題とは、私達がたたかない事です。問題とは私達が祈らない事です。その理由が沢山あります。先ず、神様が自分の事に対して関心を持ってないと思う事があります。又、神様に頼んでも頼まなくても同じ結果だと思うので、祈らないで自分でがんばろうと思います。又、神様が私達の欲しものを下さらないと思うから、祈らない事もあります。又、神様には私達を助ける力が無いと思う事もあります。又、祈りについやす時間がもったいないと思う人がいます。自分の願いが不可能な物の為にと思うかもしれません。神様が全能のお方であると知りますので、信仰によって神様が何でもかんでも出来ると信じますが、神様が絶対したくない事があると思って、そのようなものの為に祈らなくても良いでしょう。例えば、全然勉強しない生徒がテストの前に良い成績の為に祈ることはないでしょう。お医者が手を尽くしても、ガンで死にそうな人の為に祈っても無理でしょう。祈りよりも、働きましょう。祈りよりも汗を出す事です。このような考え方全部は、間違っている信仰や弱い信仰から来ます。これを乗り越える為に、祈りに答えると約束した神様を信頼する事のみです。祈りが足りない問題を解決方法とは、祈る事です。

もっと大変な状態とは、神様の門をたたかないのは、人がその門がどこにあるかわからないからです。と言うのは、多くの人々はイエス様の事を知らないからです、それで、祈りの中でイエス様の御名を呼ぶ事が出来ません。キリスト信者でない人々がそうです。ですから、私達は彼らにイエス様の門への道を教えなければなりません。イエス様は言われました、「探しなさい。そうすれば、見つかる。」日本では教会に来る新しい人々を「求道者」と呼びます。この求道者はイエス様とその救いを探しています。聖書を学んでイエス様を探します。そして、聖霊は信仰と導きを与え、洗礼の水まで案内します。「探しなさい。そうすれば、見つかる。」次に、門をたたけば、開かれるのです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」何を求めたら良いか私達にわからないでしょう。では、何でも好きなものを求めましょう。良いかどうか分からなくても、信仰を持って求めましょう。神様は、私たちが願うものより良い物を下さるかも知れません。欲張りでも、馬鹿馬鹿しくても、求めてみましょう。それが良くないと、神様は「いいえ」と言われるでしょう。頼みましょう、そして、「御心のままに行ってください。」と言いましょう。イエス様でさえも、ご自分が祈ったもの全をいただきませんでした。ある時、汗が血の滴るように地面に落ちたほど一生懸命に祈っても、父なる神様はイエス様の祈りを聞きましたが、イエス様が祈られた通りになさいませんでした。ゲツセマネの園で、苦しみを受けて十字架上で死なないように祈りました。このように祈りました、「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様は父の御心が分かりました。永遠からの神様のご計画とは、私達人間を救う事でした。ですから、私達の罪を赦す為にイエス様が十字架上で死にました。そして、3日目に甦りました。イエス様が復活したのは、国と力と栄えとが、彼のものになるためです。天国に昇天されましたので、国と力と栄えがあります。そして、天国から、イエス様は私達の祈りを聞き、私達の悲しみも喜びも見ていて下さいます。イエス様は私達の愛も、私達の惜oshiしみも分かります。私達が願う前から、もう既に私達の願いを知ります。

人々は思います、「もしすべてを知る・全知である神様がもう既に、私達が願う前に私達の祈りを知りましたら、祈らなくて良いでしょう」と。私達が祈るのは、神様が私達の欲しいものを知る事が分かるからです、それで、私達の祈りは賛美と感謝になります。私達の祈りは私達の信仰を現します。神様には、国と力と栄えがあると言う信仰です。そして、「地上に御心になりますうに」と祈りますと、私達の心は完全に神様を信頼する事です。

どのように祈りましょうか。何の為に祈りましょうか。主の祈りはすばらしいガイドです。イエス様が教えた祈りであるので、確信を持って、その祈りの中のものの為に祈る事が出来ます。正しく主の祈りを祈ったら、少なくても5分かかるでしょう。今日の必要な糧をリストアップしたら、赦してもらいたい罪をリストアップしたら、他の人を赦さなければならない罪を考えましたら、どの誘惑とどの悪から救い出してもらいたいと思いましたら、時間かかるでしょう。

いつも絶えずに祈りましょう。求めましょう。探しましょう。いつも、音高く神様の門をたたきましょう。門を開いて私達に答えてくださいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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