御国が来ますように

2014年11月23日

マタイ25:31-46  
 
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 25:33 羊を右に、山羊を左に置く。 25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』  
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」  
 

今日の福音書の日課は、最後の審判shinpanについてです。マタイ25:31-33、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」もう少し読みますと、羊は天国に行き、山羊は地獄に行きます。その裁きは人々の行動に基づいています。イエス様は言われました、25:40 & 45、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」又は、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」私達のイエス・キリストに対する信仰は他の人との行動に表されています。

私たちが人生を送りますと、多くの決断をします。教育、仕事、結婚などのような大きいものがあり、毎日の道徳や倫理的な決断もあります。今日、話したい大切な決断は、その人間関係のものです。どのように他の人と触れ会いますか、どのように愛を現すか。このようなものについて正しくよく決める為に、数年前から、あるロゴとモットーがあります。ポースターや栞shioriやバンパースティッカーなだもありました。そのモットーとは、ローマ字で、“WWJD?”その意味とは、“What Would Jesus Do?” 即ち、「イエス様だったら、何をなさるでしょうか?」と。例えば、誰かを手で打って害を与える前に、「イエス様がそれをするでしょうか」と自分に聞きます。「いいえ、イエス様はその人を赦して、親切にするでしょう」と考えます。乞食を見たら、「イエス様がコインをコップに入れるか、それとも、ペイーパーマネ(お札)を入れるでしょうか」と聞くでしょう。たまに“WWJD?”が役に立つ道徳の道具になりますが、私達はもうすでにイエス様が何をなさるかが分かるでしょう。何故ならば、私達は新約聖書を読んで、十戒や主の祈りを勉強した事があるからです。それで、その“WWJD?”のポースターは、私達に指を指して、このように言うでしょう、「どうしてあなたはイエス様がなさったであろう事をしないか。」「どうしてあなたはイエス様が決してなさらない事をしただろうか。」と聞きます。私達が“WWJD?”にしたがって人生を生きるとしたら、気分が良いでしょう。しかし、この“WWJD?”は私達が「山羊の仲間だよ」と言う事が出来るので、私たちへの警告になります。「気を付けて、危ないよ!」と。

もう一つよく使っているスローガン、特にルーテル教会の中では、“JBFA” “Justification By Faith Alone”です「信仰のみによる義」。即ち、私達が自分の働きや業によって救われていないで、私達のイエス・キリストを信じる信仰のありかたです。この“JBFA”は素晴らしい完全に自由にする福音の宣言、又、人々はこの表現を使って、すべての道徳的な義務から自分を自由にします。信仰のみによって、神様の素晴らしい恵みによって、私達は罪や地獄の恐れから自由になりました。それで、自由に喜んで空腹な人や、病気や淋しい人を助ける事が出来ます。しかし、ある人は言います、「私がひどい人でしても、神様は私を救います。いつも自分の罪を赦してもらう事が出来るからです。ですから、他の人に親切にしなくても良いです。」ルーテル教会の信者で、あるドイツのおじいさんがこのように話したそうです、「わしは、決して良い行いを一つもしなかったので、自分が救われていると確かに分かるのだ」と。そして、私は自分がルーテル教会の説教者として、今日の福音書にある問題や疑問とは、この日課にはが神様の裁きが、私達の信仰だけに基づいていないで、むしろ私達の行いに基づいている事のようでしょうか。即ち、のどが渇く人に水を飲ませたでしょうか、裸の人に服を着せたでしょうか、淋しい人を訪ねたでしょうか、災害援助金をやったでしょうか、困った人を助けたでしょうか。

今日の例え話を読みますと、その羊はただ、信仰生活を送っただけです。しかし、その山羊には信仰がなかったのです。その羊には、その“WWJD?” や “JBFA”などのスローガンは必要がありませんでした。自分達の行動が神様に喜ばしいものであるかどうかを心配しませんでした。天国に行く為にいろいろ心配した訳ではないからです。イエス様は彼らを誉めた時、彼らは答えました。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て、飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見て、お着せしたでしょうか。いつ病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そしてイエス様は説明しました、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」羊はびっくりしました。彼らが良い業をしたのは、ただイエス様を喜ばせる為ではなくて、心の中に有った動機の為でした。山羊もびっくりしました。

山羊の答えはこのようなものでした、「私達は、その人がただのふろう者、人間のクズでしかないものだったと思ったのです。その人があなた、イエス様であると分かったならば、確かに冷たい水一杯や、パンの一切を与えたでしょう。天国に入る為に、そのくらいしたでしょう」と。即ち誰かの為の親切は、その人を助ける為ではなくて、自分自身の利益の為でした、天国に行く為でした。自己中心的なチャーリティです。実は、この世の多くのチャーリティのキヤンペインは、人間は良い事をする時に、誉れが欲しい事に基づいています。ですから、寄付する人の名前は、新聞や雑誌や、大学の後援会ニューズレッターに載ります。実は、この公の感謝は素晴らしいです。又、自分の名前を寄付者のリストの中を見ると楽しいです。チャ−リティの協会は人間の虚栄心kyoeishinが分かり、それを利用ます。

しかし、イエス様はそのように人間を裁きません。神様は私達の心を見るからです。自己的な寄付は自分の利益の為です。その時の問題とは、その時、私達は本当に他の人の幸せ、その痛み、その気持ちを無視するからです。そして、神様は私達を右にするか、左にするでしょうか。私達は羊か山羊か、どちらの中に入れるでしょうか。正しい者として、それとも、呪われたものとして私達を数えるでしょうか。

その解決とは、人の子が栄光の中に、最後に来られる事ではありません。人間の問題の解決は、栄光の裁き主として来られるずっと前に、彼は、誘惑の荒れ野で空腹をし、十字架上で乾き、十字架上で裸でかけられて、逮捕され、裁かれ、殺される為に来られたのです。私達すべての人間の罪とは、私達は彼に食べ物や飲み物や着物を与えなかった事です。逮捕された時、弟子達でもイエス様を訪ねないで、彼から逃げてしまいました。そして、十字架上にいる時、私達が彼を手伝おうと思わなかった時、出来なかった時、彼は私達を助けました。御自分の上に私達の罪を取って、私達を赦して下さいました。私達に必要が有った時、彼はこの世に来られました。私達が飢えていた時、心が渇いていた時、裸の恥の時、捕らえた恥の時、淋しい時、私達の所に来られます。聖霊を下さいます。信仰を与えます。救いの良い知らせを述べ伝えるメッセンジャーを送ります。そして、私達は彼の兄弟姉妹を受け入れます。

世の最後に裁き主が来られますが、私達のクリスチャンは、怖くありません。私達の救い主の素晴らしい平和と、平安の内に生きています。その救い主はベツレヘムで生まれ、十字架上で死んで、3日目に甦りました。そして、聖餐式の中に来られ、私達の回りの兄弟姉妹の中にも来られます。人生のガイドとして必要とする唯一のモットーとは、十字架です。自分の人生の為のガイドとして、十字架は他の人の為の犠牲と愛である人生の目的を思い起こします。“WWJD?”イエス様が何をなさるでしょうか?それは、イエス様は十字架上で死ぬ事です。十字架は私達の為にイエス様がなさった事を教えます。どのように愛して下さったか、どのように今も愛して下さるかを現します。利己心のない愛です。イエス様はその愛を御自分の信者達の心の中に見せますので、彼らにこのように言われます、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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