聖書を理解する為のカギ 

2015年4月19日、復活の第3主日(復活祭後第2主日)


ルカ24:36−49
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


聖書は2つに別けられています。旧約聖書と新約聖書です。イエス・キリストが生まれる前に書かれた部分を旧約聖書と言い、生まれた後に書かれた部分を新約聖書と言います。神様の古い契約と新しい契約です。神様の古い約束と新しい約束です。ユダヤ教は旧約聖書に従って、キリスト教は新約聖書に従います。そうでしたら、どうしてキリスト教会が旧約聖書を読むでしょうか。もう要らないと思う人がいます。しかし礼拝の時、旧約聖書、特に詩篇を読みつづけます。旧約聖書の聖書日課は長くて、分かりにくい時があります。どうして読むのでしょうか。必要ですか。私達クリスチャンは、旧約聖書の律法と規定を守らなくても良いです。食べ物や着物や犠牲の掟を守らなくてもいいです。しかし、旧約聖書の中には、素晴らしい話があります。モーセやダビデを初め、神様は御自分の民を奇跡的に救い出した話などです。それだけでしたら読む価値があります。しかし、もっとあります。私達クリスチャンが旧約聖書を読むのは、その中に私達が愛する、イエス・キリストを見つけるからです。

旧約聖書の中でキリストを見つける為に、まず、キリスト教会の信仰を持って読む事です。旧約聖書の物語や詩篇や預言の中にキリストを見る為に、特別のメガネが必要です。ユダヤ人は聖書を読みますが、ナザレのイエス様がメシアとして信じないので、旧約聖書の中にキリストを見ません。クリスチャン達は聖書を読みます。しかし、イエス様の物語、その誕生、生涯、死と復活の細かい事を知らなければ、   キリストについて語る旧約聖書の箇所の中でキリストが見えません。このように説明しましょう。預言書のイザヤ書があります。イザや書を理解する為に、イエス様について知る事が必要です。そして、イザヤ書を理解すれば、イエス様と福音をよく理解する事が出来ます。言い換えますと、新約聖書を分かる為に、クリスチャン達は旧約聖書を読みます。それで、イエス・キリストにある神様の愛が分かります。旧約聖書から、犠牲、救い、苦しみ、赦しと復活について学びます。

聖書を理解する為に、カギが必要です。その鍵とは、イエス・キリストです。そのカギとは、イエス・キリストの死と復活です。甦られたイエス様は弟子達にその鍵を与えました。今日の福音書に言われました:24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ24:45-48).

又、使徒言行録8章には、フィリポとエチオピア人の宦官(かんがん)の話しがあります。馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたのですが、その意味が分かりませんでした。フィリポは彼に説明しました。その箇所はイエス様の苦しみと死を預言しました。そして、フィリポはイエス様についての良い知らせを話しました。エチオピア人は信じて洗礼を受けました。その人は、アフリカまでキリスト教の信仰を持って述べ伝えました。

聖パウロは宣教の旅に行く時、新しい町に入ると、まず、ユダヤ人達に話しました。イエス様が神様の契約の約束の成就であると話しました。聖書の中から、イエス・キリストが救い主であると見せました。信じる人が洗礼を受けました。そして、キリスト教の信仰がヨロッパに広がりました。

ユダヤ人ではない現代の人々の為に、聖書を理解するカギが今も同じです、即ち、イエス・キリストの死と復活です。神様の存在を信じる事だけで足りないのです。なぜなら悪魔もそれを知るからです。カギとは、神様が私達を愛して、私達の為に死ぬ為に御子イエス・キリストを、お使わして下さった事を知って信じる事です。その愛を見る時、神様の愛の啓示が開かれています。私達の心も開かれています。  聖霊は神様の愛を見せて下さいます。その愛は聖書の中に啓示されています。キリスト信者の人生と生活の中に現されています。ロマンチックな愛ではないし、人を大好きという感情でもないし、神様は私達が可愛いと思う訳でもありません。愛の深さは、死と地獄です。イエス様は死を苦しみました。悪魔の力を打ち壊しました。ですから、私達には天国での永遠の命があります。

イエス様が弟子達に教えて下さったように、旧約聖書を理解するカギは御自分の苦しみ、死、と復活です。それは、新約聖書を理解するカギでもあります。そのカギがあれば、山上の説教、聖パウロの手紙も理解する事が出来ます。例えば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39);隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ19:19);敵を愛しなさい、十戒を守りなさいなどです。実は、福音のカギがなければ、それ全部が不可能です。本当の愛は死と復活です。本当の従順とは死と復活です。本当の霊的な力と満足とは死と復活です。同じように、赦しと救いと新しい人生と平和と親切と聖霊のすべての実もそうです。

新約聖書は弱く、意味のない、ただの優しい宗教ではありません。ただの良い気持ちや楽しい気分を与える宗教でもありません。死と復活に基づいている宗教です。その事に対して真面目です。そしてその信仰の結果とは、悔い改めと赦しです。悔い改めと赦しは、新しい人生と新しい生活振りを造ります。それは、私達一人一人個人的の為ですが、他の人との振舞いにも影響があります。イエス様は言われました、 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。」 これは教会の働きです。教会の生き方です。すべての教会信徒の生き方です。イエス様との人生の鍵です。即ち、イエス様の死と復活です。私達の人生に意味と価値と力を与えます。それで、苦しむ人に憐れみが沸き出します。他の人に対する関心が沸き出します。イエス様の復活は、私達に希望を与えます:良い時も悪い時にも希望と確信を与えます。これは神様の愛と約束です。ナザレのイエス・キリストによって成就されました。聖霊から与えられた信仰によって私達にも成就されています。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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