モーセは、荒れ野のシナイ山から降りて、イスラエル人に神の民としての生き方を教えました。
今日の福音書の日課の中で、イエス様は、ガリラヤの山に登られて、群衆に神の民としての生き方を教えました。
今日の使徒書の中で、聖パウロは、コリントにあった教会に手紙を書き、神の民としての生き方を教えました。
聖パウロは言いました、1コリント1:18、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。《神の知恵です。十字架の教えだけではなくて、キリスト信者達の生き方も馬鹿であると思います。ほとんどの世の人々は、十戒の戒めによって生きていません。ほとんどの世の人々は、山上の説教にとって生きていません。盗む事と殺す事と姦淫(かんいん)が大丈夫だと思われている世の中では、そのような聖書の教えは、無理です。柔和と哀れみと貧mazuしい事と平和的な生き方を、世は自分の子供達に教えません。
しかし、神の民の生き方は何でしょうか。神の民は本当に十戒やイエス様の山上の説教の中の神の知恵に従いますか?今日の与えられた旧約聖書の日課はミカ6:1~8です。主なる神は、イスラエルの民を裁判にかけます。山と岡、自然世界こそは陪審員になります。神様は、彼らをエジプトでの奴隷状態から解放して、荒れ野の中で彼らを導いて下さったのに、彼らは、さからいました。今度、神様は悔い改めを求めます。そのイスラエルの社会が罪深くなりました。神様は犠牲と献金と礼拝が要りません。それで、預言者ミカが言います、6:8,
「人よ、何が善であり/ 主が何をお前に求めておられるかは/ お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/ へりくだって神と共に歩むこと、これである。《
正義、憐み、けんそんです。これこそは、山上の説教のイエス様の話と同じです。
預言者ミカは、イスラエルの民を裁判にかけます。現代の説教者達も、現代の神の民を裁判にかけます。私達皆が裁判にかけられています。山上の説教は、裁きの言葉で終わります、即ち、マタイ7:13、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。《
裁判にかけられているのは、私達の信仰や宗教の教理や礼拝ではありません。神を信じるかどうかの事ではありません。イエス・キリストを信じる信仰によって生きているかどうかの事です。イエス様の十字架の知恵によって、その愚かさによって人生を送るかどうかの事です。確認しましょう。私達が救われているのは、私達の生き方によってではありません。しかし、救われているので、そのように生きています。それは、私達が被告であり、裁き主の前に立つ時の唯一の弁護だからです。しかし、心配が要りません。素晴らしい弁護者がいます、即ち聖霊がいます。ヨハネ16:7で、イエス様は、聖霊を「弁護者《と呼ぶからです。
預言者ミカは、正義、憐み、けんそんについて話しました。これこそは、山上の説教のイエス様の話と同じです。しかし、上正義、残酷、とプライドで溢れている社会の中で、どのように人生を送る事が出来るでしょうか。他の人に指をさす事は簡単です。ニューズを見て、その人の馬鹿な事を見て、非難して文句を言います。私達はそれにプロテストをして、「義に飢え渇く《ほど、正義と平和に乾きます。そうするのは、無理ではありません。「その人たちは満たされる《とイエス様が言われるからです。正義と平和です。このように言われました、マタイ5:9、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる《と。実際の本当の平和を実現するのは、難しくて、平和になる事が奇蹟のように見えるので、その人が神様の働きをするように見えるので、「神の子《と呼ばれます。山上の説教や十戒や黄金律によって本当に生きる事が奇蹟のようです。山上の説教の結びとして、その黄金律を言われました、マタイ7:12、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。《
裁判にかけられたのは、誰でしょうか。それは、イスラエル、私達、神様、とイエス様です。ミカはイスラエルの民を告発しました。サタンは私達を告発します。この世は、神が馬鹿だと言います。イエス様は御自分の教えによって生きましたが、ユダヤ人のサンヒドリンは冒涜する者と呼びました。
では、裁判の結論は何でしょうか。答え一番。私達が罪人として定められました。しかし赦免されました。イエス様は、ご自分の尊い血によって、贖いの代金を払いました。又、ご自分の上に、私達のばつをとって、私達の代わりに十字架上で死にました。
裁判の結論の第二の答えは、私達が無罪です。罪を犯した証拠がありません。私達の罪が子羊の血によって洗い流されました;私達の洗礼によって洗い流されました。旧約聖書の時代に、祭壇の上のけにえと共に罪が焼yaかれました。新約聖書の時代に、世の罪をとりのぞく、神の小羊は私達をあわれんで、平和を与えて下さいます。(参考:アグヌス・デイ、神の小羊)
私達の痛みと苦しみと迫害の真ん中で、イエス様は私達が幸いであると言われます。ある一つの聖書の翻訳は、このように言います、「おめでとう!あなたは悲しむからです。おめでとう!あなたは義に飢え渇くからです。おめでとう!あなたは迫害されているからです。《何故ならば、幸せな事は、私達が他の人の事に感心を持つからです。亡くなった人の家族の為、上正義に苦しむ人の為、喧嘩をしている人の為です。即ち、他の人を愛するからです。そして、それこそは、幸せな事です。
アメーン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会