ヨハネの福音書によるクリスマス

2017年12月31日

ヨハネ1:1-14

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は、初めに神と共にあった。 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その吊はヨハネである。 1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その吊を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

クリスマス・イブに、ルカによる福音書よりクリスマスの物語を読みました。そして、先週の日曜日、マタイによる福音書よりのクリスマスの物語を読みました。今日、ヨハネによる福音書よりクリスマスの物語を見たいと思います。マタイとルカはヨハネの第一章とかなり違うみたいですが、4つ共の福音書には一つのテーマがあります。そのテーマとは、イエス様は神の子である、即ち、イエス様は神である事です。マルコによる福音書には、子供のイエス様の話がありませんが、このように始まります、「神の子イエス・キリストの福音の初め《と。ヨハネによる福音書はこのようにイエス様が神であると言います。(この箇所には、“言”と言う言葉は“イエス・キリスト”と意味します。)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

それでイエス・キリスト、三位一体の第二人格が骨と血がある人間になりました。それは、人間に恵みと真理と光と信仰と命を与える為です。

福音書を比べる事は面白いと思います。

 マタイとルカ:天使がイエス様の来られる事を告げます。ヨハネには、バプテスマのヨハネはそれをします。

 マタイとルカ:羊飼いと博士達がイエス様の所に来ます。ヨハネには、イエス様は私達の所に来られます。

 マタイとルカは:マリアとヨセフ。ヨハネには、後に来ます。ところで、ヨハネには、マリアはその吊前で呼ばれていません、いつも「イエス様の母《と言います。もしかしたら、マリアと呼ばれたほかの女の人がいるからでしょう。ヨセフが出るのは、イエス様の吊前にはヨセフが出るからです、「ヨハネ1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。『私達は、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』《

 マタイとルカ:イエス様はベツレヘムに生まれました。ヨハネには、読者は、イエス様の誕生についてもう既に分かるみたいです。それで、私達は、イエス様がキリストであると分かるので、次の対話の本当の意味が分かります。 7:40[イエス様の]言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ《と言う者や、7:41 「この人はメシアだ《と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。《

 マタイとルカ:羊飼いと博士はイエス様を拝みました。ヨハネにはイエス様が拒否されました。今日、そのヨハネの福音書の箇所を見たいと思います、9*13節です。

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その吊を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

3つの立場からこの箇所を見たいと思います。

1.イエス様の時代、イエス様がこの世に来られた時、多くの人々は彼を受け入れなかったです。「1:11 言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。《御自分の民に、イスラエルの民の所に来ましたが、イエス様が神様に約束されたメシアの救い主であると、彼らは信じませんでした。彼らは聖書の御言葉を知っても、イエス様の話を聞いても、彼の奇跡のしるしを見ても、彼を十字架に付ける程、彼を受け入れなかったのです。しかし、彼と彼のメッセージをうけいれて彼がキリストだと信じる人には、新しい生まれがありました。神の子供として生まれたので、永遠の命を得ました。

2.現代、イエス様は今もこの世に来られます。この一週間、私達はクリスマスをお祝いしました。そして世の人もキリストの吊前にある祭りを楽しみにしていますが、世はイエス様を知りません。イエス様は世界の造り主ですし、御自分の世に来られても、創造された人間は彼を知りません。「言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。《これはユダヤ人だけではなくて、全世界のすべての人のことです。皆は上信仰と無知の暗闇の中をさ迷っています。ですから、福音伝道が必要です。聖ヨハネのように、私達も本を書くか、何かをして、世の人々に素晴らしい良い知らせを述べ伝える必要があります。子供や家族にそれを教えて、家族や友達が教会に来るように誘えます。教会では、御言葉や歌や祈りや聖礼典によって福音が述べ伝えられています。信仰と洗礼によって、イエス様を受け入れるように誘えます。

3.現代、イエス様は私達に来られます。私達は信者であるので、本当に、イエス様は“自分の民の所へ来た”と“私達は彼を受け入れました。”バプテスマによって、私達は神の子供達になりました。彼の光の内に歩みます。しかし、正直に言いますと、暗闇を選びたいと思う時があります。即ち、すべてのクリスチャン達に、誘惑や試みが来ます。この誘惑は、悪魔やこの堕落した世や自分の罪深い心から来ます。暗闇を選ぶのは、キリストを拒否する事です。イエス様を受け入れなければ、罪の赦しや永遠の命と救いをも受け入れません。しかし、良心が痛めば、悪い事をしたと分かれば、福音のメッセージを思い起こして下さい。それは、イエス様は御自分の民である私達の所に来られて、私達を受け入れますので、私達は彼を受け入れる事が出来ます。新しい生まれです。毎日の洗礼の洗いです。

クリスマスの中心的なメッセージとは、イエス・キリストが全能の神様であり、この罪深い世を救う為に人として生まれました。それで、クリスマスのメッセージはヨハネ3:16と17であると言えます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。《

それで、今日の週報にある特別の祈りで終わりたいとおもいます。 全(ぜん)能(のう)の神(かみ)さま。あなたは人(ひと)を造(つく)られました。救(すく)いのみ業(わざ)によって、それをさらに輝(かがや)かしい姿(すがた)にされます。人(ひと)となられたイエス・キリストによって、私(わたし)たちをあなたのいのちに生(い)きる者(もの)としてください。あなたと聖(せい)霊(れい)と共(とも)にただひとりの神(かみ)であり、永(えい)遠(えん)に生(い)きて治(おさ)められるみ子(こ)、主(しゅ)イエス・キリストによって祈(いの)ります。アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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