レントの説教シーリズ:受難週の出来事。第二回目、月曜日

2015年3月1日  受難節第二主日


マルコ11:12-19
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。



先週、受難節の説教のシーリズとして、マルコによる福音書の受難週の六日間を始めました。それは、枝の日曜日から聖金曜日までです。今日、週の2日つめの日、月曜日を見ましょう。

イエス様の今日の行動は変です。普通に思うのは、イエス様がやさしく親切で、おだやかな、人を手伝って癒すお方である事です。しかし、今日は、イエス様がいちじくの木を呪ったり、暴力的に神殿を清めます。その無花果の木を呪う事を理解する一番良いのは、それが預言的なしるし、例え話のように考える方法です。もしいちじくの木の葉が茂(しげ)るならば、実があるはずです。いちじくの季節ではなかったので、葉もないはずです。それで、その木は季節外れて、正しくない木で、うその葉をつけている事のようです。

神殿も同じです。葉っぱがいっぱいのように、活動で忙しかったです。多くの人は過ぎ越しの祭りに、必要な物を売ったり買ったりしていました。しかし、このような活動は、神殿の境内にふさわしくありませんでした。神殿のふさわしい実とは、「すべての国の人の祈りの家」になる事です。それでイエス様は商売する人々を追い出しました。いちじくの木と違って、イエス様はその神殿を呪いませんでした。何故ならば、祈りと生け贄の為に、神殿が必要だったからです。その上40年後、ローマの兵隊はその神殿を完全に破壊します。イエス様の十字架上での完全な犠牲の後に、神殿が必要ありませんでした。

それで、その日、いちじくの木の為の呪いと神殿の為の、清めの祝福がありました。イエス・キリストは裁き主であり救い主であるのです。

イエス様はその神殿の状態を見て行動しました。イエス様は私達の教会の状態を見ます。イエス様はどんな行動をするでしょうか。私達を呪うかそれとも祝福するでしょうか。私達を裁くか、それともあわれむでしょうか。すべての教会のように、礼拝と祈りのほかは、フリーマーケットや持ちよりやパーティがあります。そのものが悪くないのですが、祈りと賛美と福音の伝道の邪魔をしなければです。それで、私は祈ります。イエス様が私達の教会を清めてくださるように、本当に「すべての国の人の祈りの家」になるように。

イエス様は私達の毎日の生活を見ます。私達が多くの事で忙しいので、沢山のいろいろの葉っぱがあります。しかし、実があるでしょうか。愛と祈りがありますか。親切がありますか。信仰と信頼がありますか。イエス様が私達を呪うでしょうか、それとも清めるでしょうか。清める事は祝福です。

私達がイエス様の死と復活によって清められています。洗礼によって綺麗に洗いました。罪の赦しによって祝福されました。聖パウロは、私達の体が聖霊の神殿であると書きました。聖霊は私達の心の中に住んでいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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