邪魔者にならないで

2017年9月3日


マタイ16:21*28

16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。《16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。《

16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。《

今日の聖書の話は、マタイ16:21*28です。先週の聖書日課には、ペテロが自分の信仰を告白しました、イエス様が神の子・キリスト・メシヤであると言いました。イエス様は、その信仰告白の上にご自分の教会を建てると言われました。今日の聖書日課では、メシアである事の意味を話します。その意味とは、苦しみを受け、十字架上で死んで、3日目に復活する事です。ペテロはそれが分からなかったので、イエス様をそのような危険な事から守りたいと思いました。しかし、それをすると、それは悪魔の働きになります。十字架上で死んで私達人間の救いを得る事は悪魔にとって、そうなって欲しくない事です。悪魔の意志とは、私達皆が罪の中で死んで地獄に行く事です。ですから、もしペテロがイエス様を守る事になったら、ペテロが悪魔の仕事をする事になります。イエス様がペテロに注意して言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。《

私達のストーリとは、私達もペテロのように、イエス様の働きに対して邪魔ものになります。私達もサタンのようになります。それで、イエス様は私達にも言われます。「引き下がれ《邪魔しないでくれと言われます。それは、私達がイエス様の十字架に対して、邪魔なものになる時です。これが、少なくても3つの方法できます。

先ず、私達が福音を述べ伝えないで、たの人が福音を述べ伝えることが出来ないようにする時や福音を述べ伝える人を支援しない事です。

二つ目は、十字架を恥ずかしいものだと思う時です。私達の愛する素晴しいイエス様がそんな苦しみを受けて十字架上で死ぬ事が恥ずかしいと思う時です。私達は神様の愛と親切と憐れみと恵みを欲しいと思いますが、十字架が欲しいと思いません。イエス様は弟子達に言われました、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。《その時、引き下がって、イエス様の後ろにいる事が良いです。しかしある時、私達がペテロのように、イエス様を否定して、イエス様を知らないと言うかも知れません。

三つ目は、自分の人生の中で、又他の人の人生の中で、福音の力の邪魔になる事です。しかし、どうしてイエス様が十字架上で死んだのでしょうか。それは、罪を赦すためでした。イエス様は教会に罪を赦す権利と力を与えました。この権威は、「鍵の聖務《と呼ばれています。キリスト信者一人一人の働きとも、罪を赦す事です。

私達のストーリとペテロのストーリが同じになる時とは、十字架の力を自分の人生の中に入(はい)らせない時です。私達が他の人を赦さない時、私達は福音の邪魔になります。例えば、人と喧嘩して、その人のぶじょくが「赦す事が出来ない《ほどと思いましたら、それは十字架の力を否定する事です。他の人を赦さなければ、どうして、私達が神様からの赦しを頂きたいと思うでしょうか。もし私達が赦さなければ、私達はサタンの働きをしてしまます。憎(にく)しみと恨(うら)みはサタンのものです。そして、サタンが私達を連れて行きたい所が分かるでしょう。

私達のストーリとペテロのストーリが同じになる時とは、ペテロが邪魔なものでしても、ペテロが3度もイエス様を否定して、あの人を知らないと言ったとしても、イエス様は彼を赦しました。復活の後に、イエス様は彼を3度も赦して下さいました。その時、ペテロに教会のミッションを与えました。「私の羊を飼いなさい《と言われました。これは、私達のストーリにもなります。イエス様が私達を赦してくださるのは、3度だけではなくて、7の70倊だけでもなくて、数え切れないほどです。私達を愛して下さるので、赦して下さいます。赦してくださるのは、イエス様が私達から離れたいと思わないからです。ご自分の近くに、御自分の後ろに、私達がいる事を望んでおられます。

他の人を赦す事が難しい時があります。しかし、私達は自分のプライドを捨てなければなりません。仕返しや罰を与えたいという欲望を支配しなければなりません。私達が人を赦す時、自分の心の中で死ねなければならないものがあります。それは、罪と憎しみです。私達を赦す為に、イエス様が死ぬ事が必要でした。その時、私達に対する神様の怒り(いか)が死にました。罪に対する永遠の罰がキャンセルになりました。彼の死が永遠の命の源になりました。彼の命が私達の命になりました。人を赦す時、自分の心の中で何かが死にますが、同時に、生まれかわったものがあります。愛と信頼と友情が生まれます。ですから、赦しがすごく大切です。赦しが教会の中心的な教えです。私達の罪を赦す為にイエス様が死んで下さいましたが、私達がたの人の罪を赦す為に生きています。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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