キリストの掟を守る為の助け主、弁護者


ヨハネ14:15–21 1

5「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

イエス様は言われました、「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。《 今日聞きたいと思うのは、その掟はどちらの掟でしょうかと。

即ち、イエス様は御自分の規定について話しましたが、それがモーセの規定、その旧約聖書の十戒と言われませんでした。これが大切であると思うのは、多くの人々は、キリスト教はただ十戒を守る事で、良い人でしたら、天国に行けると思うからです。それは福音ではありません。キリスト教でもありません。ユダヤ人やユダヤ教は同じように言います、旧約聖書やモーセの律法もそのように言います。勿論、私達は良い人である事は望ましいです。十戒は、私達クリスチャンの為に、良い手引きです。特に、小教理問答書にマルチン・ルターが書いたように理解出来るはずです。しかし律法、神様の律法でしても、私達人間がする事やしてはならない事についてです。福音とはキリストが私達の為になさった事、又、今も私達の為にして下さる事です。 で

すから、もしイエス様が意味するのはモーセの律法ではなくて、御自分の規定について話すのでしたら、その規定とは何でしょうか。まず今日の福音書の日課、ヨハネ14章のコンテクストで、その前の章、ヨハネ13:34*35でイエス様はこのように言われました、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。《又、次の章、ヨハネ15:12*13で言われました、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。《

モーセの古い律法は、もう既にこのように言いました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。《又、「隣人を自分のように愛しなさい。《ですから、イエス様の新しい戒めはお互いの愛です。即ち、弟子達の集まり、又、私達の教会の集まりの中では、私達はイエス様を反映するように生きる事です。神様は私達と共にいます。私達の心の中にいます。聖霊の事について話して、イエス様はこのように言われました、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。《一時的なものではなくて、神様は私達の人生の中に生きて、御自分の神殿を私達の心の中に永遠のもののように建設します。それは三位一体神様の全部で、父と子と聖霊です。神様は私達すべてのクリスチャンと共にいますので、どうして私達が互いに喧嘩し合う事が出来るでしょうか。神様は御自分と戦う事が出来ないはずです。私達が互いに愛し合う事は自然であるはずです。

イエス様は言われました、「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。《「あなたがたは、私を愛しているならば、お互いに愛し合う《とも言われても良いでしょう。イエス様は弟子達の心と思いを知りました、同じように私達の心と思いをも知ります。人間にとって、信者達にさえもの為に、本当に互いに愛し合う事はどんなに難しいか、イエス様が分かります。教会の中のすべての人々は、地域教会も教団の中にも、すべての人々はいつもすべての意見が同じでないので、問題が起こる事があります。又、ある人との付き合いが難しいです、それは私自身の事もそうです。それで、私達には助けが必要であるとイエス様が分かりました。それで助けを送るように約束しました。その助け主とは聖霊です。このように言われました、「父は別の弁護者を遣わして{口語訳聖書:『父は別に助け主を送って』}、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。《真理の霊で、私達に真理を啓示して下さいます。福音の本当の意味を表します。神様の愛を説明して下さいます。これは友の為に死んで下さる愛です。私達の為に死んで下さった愛です。その愛が私達の罪を赦して下さったので、私達はイエス様を愛する事が出来ます。それは、私達とイエス様の間にあるお互いの愛です。その同じ愛が、私達クリスチャンの交わりの中にあるようにイエス様は願います。それで、イエス様とのお互いの愛があれば、信者同士の間にもお互いの愛があります。

私達がイエス様を愛するのは、イエス様が先に私達を愛して下さったからです。私達は他の人を愛するのは、イエス様が先にその人達を愛して下さったからです。それで、私達はキリストが愛する人を愛します。それは、キリスト教会のすべての道徳と振る舞いの元です。

イエス様は言われました、「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。《今日、もう2つのイエス様の命令をも覚えたいと思います。マタイの福音書で、イエス様の公の宣教の働きの最初の言葉と最後の言葉は、命令です。マタイ4:17、「悔い改めよ。天の国は近づいた《とマタイ28:19-20、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の吊によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。《

この二つの掟を守る為に、私達は本当に聖霊の助けが必要です。新共同訳聖書は「弁護者《と言いますと口語訳聖書は「助け主《と言います。私達を助けて下さる者です。イエス様は「悔い改めよ《と言われました。悔い改める事とは、信仰を持つ事です。即ち、悔い改める事とは、自分が罪人で神様の助けが必要であると分かる事です。また、悔い改める事とは、イエス様の十字架上での死による罪の赦しを自分の為に受け入れる事です。それを信じる事が出来る為に、聖霊は私達の心の中に働きます。悔い改める事とは、ただクリスチャンである事、又、十字架の赦しによって活きる事です。それをする為に、助け主なる聖霊が本当に必要です。

二つ目に、伝道をする為に、本当に聖霊の助けが必要です。今年、宗教改革500周年を記念します。それで、この伝道の機会があるので、聖霊の導きがあるように祈ります。福音が更に多くの人々の心と人生に至るように祈ります。日本のすべての教会が分かるように、伝道はすごく難しいで、自分の力だけで出来ません。その為に、ペンテコステの時にキリストは聖霊を送りました。私達を助ける為です。

イエス様は言われました、「18私は、あなたがたをみなしごにはしておかない《と。私達に助けと導きと慰めと希望と力を与える為に、聖霊とキリストは世の終わりまで、いつも私達と共にいるのです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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