心から聞く
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」


2015年9月6日

マルコ7:33-37
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

私は年を取るにつれて耳が遠くなるみたいです。私の家内もそう思います。ですから今日の福音書には特別な興味があります。ここでイエス様は、特別な方法で耳が聞えず口のきけない人を癒やしました。

彼は耳が聞こえないので、イエス様は特別な手話を使いました。イエス様は「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで」。。。(これは祈りです。天を仰ぐ理由は、その人がこの癒やしが天国から来ると分かるためです。)。。。「深く息をつき」。。。(イエス様の心の深くから話された言葉で)。。。「その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、」。。。(アラム語で)。。。「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」

イエス様が「エッファタ」と言われた時、その人はそれが聞こえなかったはずです。ですからその言葉の中には癒しがありました。イエス様が「エッファタ、開け」と言われた時、その人にそれが聞こえました。イエス様の命令は、言われた瞬間に、その人を完全に直しました。もしかしたら、イエス様はその言葉を大きい声で叫んだでしょう、と言うのは、その癒しの言葉を聞いたのは、それ以前に耳が聞こえない人だけではなくて、町中の多くの人々がその言葉を聞いたみたいです。何故ならば、その言葉は、耳が聞こえない人の耳を開きましたし、町の人々の耳をも、彼らの心をも開いたのでしょう。それで彼らはイエス様が、神様から来られた素晴らしい預言者だと分かりました。その人の舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになったと同じように、そこにいた人々の舌が解けました。彼らもはっきりと話しました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と。イエス様は彼らに、この事を誰にも言ってはいけませんと言われて、人々に口止めをされましたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめたのです。皆さんはすっかり驚きました。もしかしたら、その人の舌を癒やした時、その癒やしの力が「エッファタ」と聞いた人々の所に溢れて、皆さんが良い知らせを語る事を止める事が出来なかったのでしょう!

聴覚(ちょうかく)障害(しょうがい)は耳の病気ですが、神の御言葉を聞こうと思わない心の霊的な病気もあります。マルコ4:9で、イエス様はこの悩みについて話しました:「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

古いことわざがあります。「見ようと思わない人ほど盲人がいない」と。このようにも言い換えます。「聞きたくない人ほどつんぼがいない」と。ものを聞きたくない時、人は耳を閉じます。時によってそれは良い事です。やかましい、うるさい大きな音や愚かな話や誘惑から自分を守る為です。しかし人間には知恵の言葉を聞こうと思わない頑固な性質があります。例えば神様について、聖書の中の明確な神様の啓示よりも、自分の想像の方が好きです。自分の罪を告発する言葉を聞きたくありません。

いや、それよりひどいと思います。ただ聞きたくないよりも、聞く事が出来ません。罪の為にやかましい音や雑音が多すぎて、神の御言葉が人の心に入る事が出来ません。例えば、男の子(又男の人)がテレビを見ている時、お母さんは「ご飯だよ」と言っても聞こえません。「ご飯だよ!聞きませんでしたか。」「いいえ、聞きませんでした。」本当に聞きませんでした。夢中(むちゅう)になっていたので、本当に聞こえませんでした。罪も同じです。夢中になってしまって、福音が聞こえません。又、聞こえても人は福音を理解する事が出来ません。

神様の御言葉を耳だけで聞く事は十分ではありません、心で聞かなければなりません。しかし、私達の石頭と硬い心に入る事が出来るでしょうか。私達の毎日のうるさい世間の雑音に入る事が出来るでしょうか。悪魔や罪や私達の頑固(がんこ)な思いで造られた壁を乗り越える言葉は何でしょうか。私達が理解する国語や単語の言葉は何でしょうか。

ある時、効果的な言葉は、簡単な『愛』や『平和』の言葉です。別の時、強い、脅(おど)しの言葉が必要です、例えば、地獄、滅び、死です。ある時、私達の心に刺しこむ事が出来る事は、病気、愛する人の死、事故、恥、恐怖、神の怒り、律法のトゲ、又、罪深い良心です。その時、イエス・キリストの働きを叫んで述べ伝える言葉が必要です。イエス・キリストの十字架によって、父なる神様は、愛する者の死、恥、恐れ、罪と死がよく分かります。キリストの十字架は私達の心と魂と人生に、「エッファタ」と叫びます。「開け!」 イースターのお墓が開けられたと同じように、私達の信仰の心も開かれています。これは、復活と希望と愛と平和の言葉です。信仰を造る言葉とは、「十字架」です。

今日の福音書の日課には、耳が聞こえず舌の回らない人が完全に癒されました。35節が言います、『すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。』私達の心が開かれている時は同じです。私達もはっきり神様の愛の福音を語ります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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